秘書官、そして亡命時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:25 UTC 版)
「ジルベルト・フレイレ」の記事における「秘書官、そして亡命時代」の解説
コロンビア大学大学院修了後は、ヨーロッパ各国を訪問し研究者と交流、1923年にブラジルに帰国し『ディアリオ・デ・ペルナンブーコ』紙において文筆活動を開始した。1927年、父方の親族がペルナンブーコ州知事に就任した際に請われ、その秘書官に就任。1928年、ペルナンブーコ師範学校にブラジル初の社会学の教員として招かれたが、1930年10月のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスによる軍事クーデター(ヴァルガス革命)でオリガルキー的な政治姿勢をとっていた知事と共に職を追われ、バイーア州とアフリカ大陸を経由して、ポルトガルのリスボンへ2年間の亡命を余儀なくされた。この間にポルトガルや米国で『大邸宅と奴隷小屋』の資料収集を行った。1931年2月、カリフォルニア州のスタンフォード大学に客員教授として招かれ春学期の講義を行った後、再びドイツを経由してポルトガルに戻った。結果として、この亡命期間がより研究を進め関心をさらに深めることになった。
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