秘書兼愛人であったシャルロッテ・フォン・キルシュバウムとの関係
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「カール・バルト」の記事における「秘書兼愛人であったシャルロッテ・フォン・キルシュバウムとの関係」の解説
バルトの生涯およびその主著『教会教義学』を語る上で欠かすことのできないのが、彼の秘書兼愛人であったキルシュバウムとの関係である。なお、ドイツ語版の項目においては「三角関係」という表題がこの項目に付けられている。バルトが秘書兼愛人と同居していたことは、生前から近しい人々には旧知の事実であったが、バルトの死後、二人が互いに交わした愛の手紙がバルトの子供たちの許可を得て出版された。 二人は遅くとも1925年の夏までに個人的に知り合ったが、その時点ですでにバルトには妻と五人の子供たちがいた。しかしバルトはキルシュバウムを愛し、彼女はバルトにとって欠かすことのできないパートナーとなった。この関係についてバルトは1926年2月28日付のキルシュバウムあての手紙の中で、決して単なる精神的な愛ではなく、「私たちは健康でありたいと願うし、私たちの間には、人間的で地上的な愛、私たちを別の状況においては男女として結び合わせたはずの(=別の状況であるなら婚姻関係に至れたという意味)愛があることを白状する」と認めている。1929年にバルトと秘書兼愛人キルシュバウムは、バルト一家の住むミュンスターの居宅で同居を始めた。その後、バルトと妻のネリーおよびキルシュバウムは三十年以上共に生活を送ることになった。妻が家事と子供たちの世話を引き受け、他方キルシュバウムはバルトの原稿執筆に補佐役として貢献した。キルシュバウムはバルトを補佐するためにヘブル語、ギリシア語、ラテン語を習得し、文献の要約を作成し、バルトの原稿を読み議論を交わした。バルトはその膨大な主著の執筆にあたって、キルシュバウムの助けがいかに重要なものであったかを、知人への手紙に書いている。「私の著作は彼女なしには、今これほどまでの規模になることはできなかっただろう。多岐にわたる技術的な協力のみならず、彼女が私に付き添ってくれる仕方をも含めて。」『教会教義学』における神学史および釈義史の細かなExkursにはキルシュバウムの直接の影響があると指摘する研究者もいる。 この間、カール・バルトも妻のネリーも夫婦の婚姻関係を離婚によって解消することには至らず、三人は三角関係を維持したまま同じ屋根のもとで暮らした。バルトがナチス政権下でドイツ教会闘争を指導していたときには、キルシュバウムは秘書としてバルトの文通を手助けした。 しかし、1962年にキルシュバウムは精神・神経系の疾患にかかり、1965年には入院し、1975年に死去した。キルシュバウムの遺体はネリー・バルトの許可のもと、1968年に死去したカール・バルトが眠るバルト家の墓に埋葬された。
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