秘書・幸田初枝
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幸田 初枝(こうだ はつえ)は、鹿島建設の秘書である。拓殖大学出身(52期)。鹿島建設の役員室や秘書課が入っていた赤坂別館にて開館から約9年間、鹿島守之助会長の秘書を務めた後、1975年に副会長の鹿島卯女(後に会長・名誉会長)の秘書を務めた。 赤坂別館の鹿島会長夫妻それぞれの執務室で、夫妻の執筆のための資料収集・整理、清書・校正などを手伝う。守之助会長は秘書たちに優しくも厳しく、文章に守之助から「注」がたくさん付けられた。会長は裏付けを重要視していたのである。幸田は出版協力のお礼に守之助から『パン・ヨーロッパ』と『実践的理想主義』をサイン入りでいただき、彼女はそれを大切にしているのであった。 1963年のある日、鹿島守之助宛てに北海道の高校1年生から手紙が届いた。その手紙というのは、高校生の自分はクーデンホーフ=カレルギー伯爵に興味があり一生懸命読みたいけれど、高価で手が出ないので新品でなくてもいいから本が欲しいというような内容で、幸田はその高校生の元へクーデンホーフ=カレルギー伯爵関連の書籍を色々と箱に入れたものを送り、手紙が来てから半月で高校生に届いた。幸田はその手紙と、本が届いたお礼状の2通をファイリングして40年以上ずっととっておいた。幸田は「この少年は面白い。やがて、何か仕事をしてくる男だろう」と思ったのであった。その高校生とは評論家寺島実郎である。2009年、寺島は鹿島守之助の孫・渥美直紀(当時鹿島建設副社長)と友人関係にあり、46年前の高校生のときの話を渥美にしたら、渥美経由で幸田に話が伝わり、幸田がその昔の手紙を出してきたのである。幸田は当時の高校生の出来事を鮮明に覚えていた。寺島は『実践的理想主義』、『パン・ヨーロッパ』、『ヨーロッパ国民』などそのとき送ってもらった本を大切にしている。寺島はただの高校生に書籍を贈ってくれた鹿島守之助の行動をある種の恩人という思いでいた。寺島はやがて評論家になり、3万冊の書庫を自宅の庭に建設し、2009年4月、九段下駅を出てすぐのビルに自宅の3万冊を移し始め「寺島文庫」を開設した(寺島文庫ビル)。鹿島守之助が贈った本は寺島文庫「欧州の棚」に置かれている。 1967年、幸田は、守之助会長が敬愛するクーデンホーフ=カレルギー伯爵への第1回鹿島平和賞授賞で守之助会長と一緒に呼吸をしっかりと合わせて伯爵にメダルのリボンをかけ、本番で守之助会長が「いいですか」と小さく言うので「はい」と応じ、緊張の一瞬であった。 1973年、永富家秋恵園の「パン・アジアの碑」除幕に立ち会い、守之助会長が件のセリフ(「私が生きている間にはパン・アジアは実現しないでしょう。あなたは若いから実現を見られるかもしれない」)を言った相手というのも、この幸田初枝である。 守之助死去後の1981年、幸田は『ソビエトの聖地を訪ねて』という著書を鹿島出版会から出した。 幸田は1982年の卯女名誉会長死去後、追懐録や社史編纂に携わる。幸田は1989年1月7日昭和最後の日、赤坂別館の勤務を終え、鹿島建設本社にて渥美健夫名誉会長の秘書を務める。2月15日に赤坂別館地下1階大会議室で行われた解体工事の安全祈願祭に、幸田も参加した。「私の守之助会長ご夫妻との思い出が一杯詰まったこの建物がなくなると思うと、耐え難い寂寥に胸塞がれる思いがいたします」、幸田はこのように語った。 『近現代日本人物史料情報辞典 第4巻』(吉川弘文館、2011年)における「鹿島守之助」の項目は幸田初枝が執筆した。
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