亡命作家
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最初は南部アルプ=マリティーム県ムージャンのベリサン家に滞在した。フランスではすでにディブは独立のために闘うアルジェリアの良心を代表する作家という評価が確立していたため、アラゴンをはじめとして多くの左派知識人の支持を得ることができた。アンドレ・マルローはディブについて、「アフリカ作家のなかで最も大きな影響を及ぼす可能性がある」と予見した。ムージャン滞在中に初めて東欧諸国を訪れ、小説『アフリカの夏』と『誰が海を覚えているか』、最初の詩集『守護亡霊』を発表した。「アルジェリアの夏」ではなく『アフリカの夏』と題した小説は、植民者が所有する土地に生まれ、飢えと寒さに苦しみながら生まれた土地に生きることができない、被植民者であるすべてのアフリカ人にとって「より人間的な世界」が誕生するようにという願いを込めた作品である。小説『誰が海を覚えているか』は、ディブの作風の転換を期する作品であり、植民地主義の問題を扱いながらも、これまでのように(あるいは他のアルジェリア作家第一世代のように)写実的な描写ではなく、植民地体制の崩壊を暗示する幻想的な作品であり、これ以後、ディブの作品は亡命作家として言語の問題、意味の探求を中心に思索的、形而上学的、象徴主義的、ときには難解とされる作品を書くことになる。詩集『守護亡霊』もアルジェリアでの著作活動と一線を画すものであり、序文を書いたアラゴンは、「私の窓の木々、私の川辺の川、我々の大聖堂の石とは何の関係もない国」から来たディブが、(フランス中世の大詩人)フランソワ・ヴィヨンや(社会主義、そしてカトリックの詩人)シャルル・ペギーの言葉で語ったと評した。 1964年にパリ近郊のムードン(オー=ド=セーヌ県)に越し、しばらくしてラ・セル=サン=クルー(イヴリーヌ県)に居を構えた。ディブは1990年代に再びアルジェリアを舞台にする『迂回路のない(率直に語る)沙漠』、『野生の夜』、『悪魔の御心に適うなら』などの小説や、写真家フィリップ・ボルダス(フランス語版)が撮った故郷トレムセンの写真に語りを付けた『トレムセン、もしくはエクリチュールの場』を発表することになるが、短期滞在を除いて再びアルジェリアに帰ることはなかった。 1970年からロシア、東欧・北欧諸国など世界各地を訪れ、1974年に渡米し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で教鞭を執った。 1975年にラハティ(フィンランド)で開催された作家会議に詩人ウジェーヌ・ギュヴィック(フランス語版)とともに招かれたのを機に、フィンランド詩の翻訳家として活躍。フィンランドにたびたび滞在しながら、1985年から1990年にかけて同地を舞台とした北欧三部作『オルソル大地』、『イヴの眠り』、『大理石の雪』を発表した。 ディブは詩、小説のほか、随筆、戯曲、児童文学作品を含む30冊以上の著書を発表し、フランス語圏大賞をはじめとするアカデミー・フランセーズの文学賞、マラルメ賞など多くの文学賞を受賞した(以下参照)。 2003年5月2日、イヴリーヌ県ラ・セル=サン=クルーにて死去、享年82歳。ラ・セル=サン=クルー墓地に眠る。
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