お‐みずとり〔‐みづとり〕【▽御水取り】
お水取り
お水取り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/25 02:03 UTC 版)
お水取り(おみずとり)は、東大寺二月堂で行われる、修二会という法会の中の一行事。3月12日深夜に閼加井屋(あかいや)にお水を汲みに行くことからこの通称で呼ばれるようになった。
目的は、仏の前で罪過を懺悔すること(悔過)であり、2020年現在は3月1日から14日までおこなわれている。その間、心身を清めた僧(練行衆)が十一面観音の前で宝号を唱え、荒行によって懺悔し、あわせて天下安穏などを祈願する[1]。 「お水取り」はあくまで行中の一部であり、旧暦2月に行われていたため「修二会(しゅにえ)」と呼ばれるが、正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)法要である[2]。
二月堂本尊の十一面観音を祀る懺悔祈祷の厳行であり、(天平勝宝4年/752年)、良弁(ろうべん)の高弟実忠(じっちゅう)によってはじめられたと伝えられている。お水取りの通称は、東大寺領であった若狭の荘園から水を運搬して来たことに由来する。 古代には、天災や反乱などの国家的な災いは「国家の病気」によるものと考えられ、その病気を取り除く十一面悔過は国家的な宗教行事であり、「不退の行法」として引き継がれ、戦時中なども一度も中止されることなく行われ、令和5年で1272回目となる[3]。
この行のハイライトは達陀(だったん)の行法。 12日、13日、14日の深夜のみに行われるこの行法は、練行衆が火天や水天に扮し二月堂内の暗闇の中で松明を燃やし行われる。神秘的とも言える行法である。 近畿地方では、「お水取りが終わると春が来る」という[4]。
3月12日のお水取り
狭義の「お水取り」は修二会期間中の3月12日深夜に、二月堂前の若狭井という井戸から観音菩薩にお供えする「お香水」を汲み上げる儀式である[3]。『二月堂縁起絵巻』(天文14年/1545年)によれば、実忠が修二会の最後に神名帳に記した1万3千7百余座の神々の名を読み上げ祈念したところ、遠敷明神だけが遅刻してこれを聞き逃した。これを悔やんだ遠敷明神は二月堂のほとりに「香水」を奉じると約束した。すると、黒と白の鵜が岩を割って飛び出し、その岩から泉が湧いたので、石を敷いて「閼伽井」とした、とある[3]。
「香水」は若狭国から10日かけて地下を通って若狭井へ届くという伝説があり、福井県小浜市の若狭神宮寺では毎年3月2日に若狭井へ水を送る「お水送り」の神事が行われている[3]。
竹送り
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籠松明として使われている真竹を二月堂まで届ける行事を竹送りといい、奈良市内[5] や京田辺市[6]、生駒市高山地区[7]などから寄進されている。
お水取りの起源に関する研究
伊藤義教は『東大寺お水取り』(1985年)において、修二会に見られるイラン文化との類似点や、お水取りの地下水路伝説とカナートとの関連などペルシア文化の影響を指摘している[3]。対して五来重はペルシア文化伝来説を否定し、若狭とのつながりは後代に作られたものであり、民間の正月行事である「おこなひ」が起源であるという説を唱えた[3]。
脚注
出典
- ^ “お水取り|奈良国立博物館”. www.narahaku.go.jp. 2020年5月21日閲覧。
- ^ “「お水取り」が終わると春が来る! その歴史と東大寺の僧・公慶の物語(tenki.jpサプリ 2017年03月14日)”. tenki.jp. 2020年5月21日閲覧。
- ^ a b c d e f 寮美千子「東大寺修二会「お水取り」の起源に関する仮説」『研究紀要』(18) 奈良佐保短期大学 NAID 110008441408 2010年 pp.25-34.
- ^ “「お水取り」が終わると春が来る! その歴史と東大寺の僧・公慶の物語(tenki.jpサプリ 2017年03月14日)”. tenki.jp. 2020年5月21日閲覧。
- ^ “お水取り たいまつの竹運ぶ 市内のグループが「竹送り」”. 奈良の声. (2012年2月11日) 2020年7月7日閲覧。
- ^ “二月堂竹送り 京田辺道中記”. 京田辺市観光協会-. 2020年7月7日閲覧。
- ^ “まっすぐな竹 奉納”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社 (2018年2月18日). 2020年7月7日閲覧。
関連項目
外部リンク
お水取り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:00 UTC 版)
3月12日、後夜の五体投地を中断して13日午前1時30分ごろから3時ごろまでお水取りが行われる。お水取りが終わると再開される 。大勢の参拝者の見守る中、咒師が先導して、呪師童子が蓮松明(呪師松明)を抱え、5人の練行衆とともに南側の石段を下りて閼伽井屋(あかいや 別名・若狭井)へ向かう。雅楽が奏され、おごそかに行列が進む。途中、良弁杉の横の小神社の興成社に立ち寄り祈る。 咒師と堂童子と駆士2人、堂童子付き以外の童子数人が、閼伽井屋に入り灯りをともさず香水をくむ。堂童子の童子は扉の開閉を担当し、他の5人の練行衆は入口を警備する。香水は閼伽桶とよばれる桶に入れられ榊を飾った担い台に乗せられ、駆士により二月堂に3往復し運ばれ南出仕口で小綱が受け取り、外陣の南正面に運ぶ。内陣には和上・大導師・堂司が運び入れる。香水は、いったん大桶に入れられ、翌日、須弥壇下の香水壺に蓄えられる。本尊に供えられたり、供花の水として用いられたりする。走りの行法の後で和上から練行衆に数滴、分かたれ、参篭衆にも配られる。その後、中灯・権処世界から香水杓で礼堂や一般の聴聞者にも給われる。香水壺には、開始以来の香水が薄まりながら伝えられているとされる。お水取り直後から2日間、六時の悔過作法で香水加持をして霊力を強める。 新春に若水をくみ上げて用いて邪気を払う、浄水への若水信仰が各地にあり、この水取りの基盤にあるとする。 伝説では、この水は、若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん)が神々の参集に遅れたお詫びとして二月堂本尊に献じられたとされる(『東大寺要録』)。今でも遠敷明神の神宮寺であった若狭小浜市の若狭神宮寺では今もこの井戸に水を送る「お水送り」(3月2日)の行事が行われている。
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