自殺に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 23:39 UTC 版)
2019年4月に、遺族への取材をした朝日新聞により死去に関わる事情が報道された。多数の研究業績があったにもかかわらず、大学の研究職に就職できない状況が続いたため、衣食住は両親に頼り、非常勤講師やアルバイトで研究費をまかなっていたという。2014年に男性医師と結婚したが、同居生活が破綻。2016年、離婚届を提出したその日に自殺した。
※この「自殺に関して」の解説は、「西村玲」の解説の一部です。
「自殺に関して」を含む「西村玲」の記事については、「西村玲」の概要を参照ください。
自殺に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 05:09 UTC 版)
1927年(昭和2年)7月24日、雨の降りしきるなか、田端の自室で芥川龍之介は「ぼんやりした不安」を動機として服毒自殺を行い、社会に衝撃を与えた。使用した薬品については、ベロナールとジェノアルとする説が一般的である。死の数日前に芥川を訪ねた、同じ漱石門下で親友の内田百閒によれば、芥川はその時点でもう大量の睡眠薬でべろべろになっており、起きたと思ったらまた眠っているという状態だったという。すでに自殺を決意し、体を睡眠薬に徐々に慣らしていたのだろうと推測される。一方で、自殺の直前には身辺の者に自殺をほのめかす言動を多く残しており、実際には早期に発見されることを望んだ狂言自殺で、たまたま発見が遅れたために死亡したとする説がある。また、死後に見つかり、久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記」で芥川は自身の「ぼんやりした不安を解剖」して自殺へ至る道程(動機、手段、場所)について具体的に書き記している。その中に「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみとした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。(中略)…僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品(バルビツール酸系ヴェロナール (Veronal) およびジャール)を手に入れようとした」とあることから、記述を信頼すれば計画的に自殺を企てていた節も窺える。エンペドクレスの伝記にも言及し「みずからを神としたい欲望」についても記している。 遺書として、妻・文に宛てた手紙、菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙がある。芥川が自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉は、今日一般的にも有名であるが、自殺直前の芥川の厭世的あるいは「病」的な心境は『河童』を初めとする晩年の作品群に明確に表現されており、「ぼんやりした不安」の一言のみから芥川の自殺の動機を考えるべきではないともいえる。芥川命日は小説『河童』から取って河童忌と称される。 死の直前である7月初め、菊池寛に会うため二度文藝春秋社を訪れているが会うことができなかった。社員が菊池に芥川が訪れたことを報告せず、生前に菊池が芥川を訪ねることもなかった。 死の前日、芥川は近所に住む室生犀星を訪ねたが、犀星は雑誌の取材のため上野に出かけており、留守であった。犀星は後年まで「もし私が外出しなかったら、芥川くんの話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんでいたという。また、死の直前に 「橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひひきすなはち見ゆる禿の頭」 と河童に関する作を残した。 芥川の自殺報道の直後からその死にショックを受けたと思われる若者たちの後追い自殺が相次ぎ、「芥川宗」とも呼ばれた。 死の8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」(芥川賞)を設けた。芥川賞は直木賞と共に日本でもっとも有名な文学賞として現在まで続いている。 芥川の死は関東大震災から数年経ち大正天皇崩御後、25歳の皇太子裕仁親王が現人神として天皇陛下に即位し昭和が始まって間もなくのことであった。川端康成は震災と芥川の死を関連付けて『サンデー毎日』に次のように語った。 「 二三年(にさんねん)の後いよいよ自殺の決意を固められた時に、死の姿の一つとして、あの吉原の池に累々と重なつた醜い死骸は必ず故人の頭に甦つて来たにちがひないと思ふ (川端康成「芥川龍之介氏と吉原」、『サンデー毎日』 1929年1月13日 第8年3号より) 」 芥川の師・夏目漱石は一高講師時代にも教え子が自殺している。芥川より一回り上の世代の先輩一高生・藤村操は、明治時代のエリート青年たちがショーペンハウアーにかぶれていた風潮の中で自殺した。彼の死も社会に衝撃をもたらした。
※この「自殺に関して」の解説は、「芥川龍之介」の解説の一部です。
「自殺に関して」を含む「芥川龍之介」の記事については、「芥川龍之介」の概要を参照ください。
- 自殺に関してのページへのリンク