し‐しめい【史思明】
史思明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/30 01:11 UTC 版)
大聖周帝 史思明 | |
---|---|
燕 | |
第3代皇帝 | |
王朝 | 燕 |
在位期間 | 759年 - 761年 |
都城 | 燕京 |
姓・諱 | 史窣干(初名)→思明 |
諡号 | 大聖周皇帝 |
生年 | 長安3年(703年) |
没年 | 順天3年3月9日 (761年4月18日) |
后妃 | 辛皇后 |
年号 | 応天 : 759年 順天 : 759年 - 761年 |
史 思明(し しめい)は、唐代の軍人[1]。燕の第3代皇帝。
人物・生涯
突厥とソグド人の混血出身で、安禄山と同世代で同郷だったため親しい仲にあった。また、自身も6つの言語を解し教養に通じる人物であったため、次第に頭角を現していく。幽州節度使の部下であったときに戦功を挙げ、天宝11載(752年)には安禄山の配下となった。
天宝15載(756年)に安禄山が反乱を起こすと、河北で軍を率いて戦い、李光弼や顔真卿率いる唐軍と戦った(安史の乱)。しかし、聖武2年(757年)に安禄山の次子の安慶緒が、父を殺害してその後を継いで燕の皇帝と称した。史思明はこれに反発し、范陽に帰って自立。やがて唐に降伏するも、粛宗や彼に近い要人達が自分の殺害を計画していることを知ると、再び叛いた。天成3年(759年)1月、魏州で燕王を称した。3月、相州(鄴)を包囲する唐の9節度使を撃破したが、安慶緒を殺害した。4月、魏州で自ら大燕皇帝を名乗り自立した。9月、洛陽を奪った。だが、順天3年(761年)3月、末子の史朝清を後継ぎにしようとしたために、長男の史朝義によって殺された。
子
- 史朝義
- 史朝英
- 史朝清
脚注
- ^ “史思明(ししめい)の解説”. goo人名辞書. 2020年7月2日閲覧。
外部リンク
史思明と同じ種類の言葉
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