馬仲英とは? わかりやすく解説

馬仲英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/15 06:34 UTC 版)

馬仲英
プロフィール
出生: 1912年(1908年または1910年説有り)
死去: 1937年[1]
ソビエト連邦
出身地: 甘粛省蘭州府河州城
職業: 軍人
各種表記
繁体字 馬仲英
簡体字 马仲英
拼音 Mǎ Zhòngyīng
ラテン字 Ma Chung-ying
和名表記: ば ちゅうえい
発音転記: マー ジョンイン
テンプレートを表示

馬 仲英(ば ちゅうえい、1910年 - 1937年[1])は中華民国の軍人。馬麟の甥で、馬家軍の有力頭領である。旧名は歩英子才回族出身。生没年不詳。

人物・生涯

青海軍事学校に入学する。1925年民国14年)、寧海軍騎兵第11営の幇帯となった。1928年(民国17年)、馮玉祥に反旗を翻した。しかし国民軍劉郁芬に敗北して、河西に逃れた。

1929年(民国18年)、蔣介石から討逆軍第15路軍第2路縦隊司令に任命され、反蔣軍と戦う。1930年(民国19年)、山東省に赴いて馬鴻逵の参議となった。同年中に寧夏省に引き返し、引き続き馬鴻逵の下で教導大隊長をつとめている。

1931年(民国20年)、馬仲英は河西行政委員会を組織し、さらに甘州4県と粛州7県を河西省中国語版として、同省政府主席を自称する挙に出る。しかし同年4月に、青海省馬歩芳の攻撃を受け、酒泉へ逃れた。同年中に、今度は新疆省へ軍を率いて進入し、同省政府主席金樹仁と交戦した。しかし、クムル(哈密)を攻略できず、河西へ退却した。

1932年(民国21年)、馬仲英は、蔣介石により国民革命軍新編第36師師長に任命された。翌1933年(民国22年)5月、またしても新疆へ進攻し、同省政府主席盛世才と交戦した。馬は、トルファンなど13の県城を占領し、9月には、新疆省政府委員にも任命されている。しかし、1934年(民国23年)、盛の反撃に敗北してしまう。馬は退却途中に、東トルキスタン共和国(第1次)とホータンのイスラム教政権を攻め滅ぼしている。同年7月、馬仲英は、部隊の200人とともに、ソビエト連邦へ向かい、空軍に加入した。

1937年(民国26年)、暗殺されて死亡。

逸話

新疆での馬仲英の戦いには、スヴェン・ヘディンも巻き込まれ、彼自身は馬に面会したことがないが、この件に関する詳細な記録を残している。この記録の日本語訳に、小野忍訳『馬仲英の逃亡』(初版;改造社、1938年。新版:中公文庫、2002年)がある。

脚注

[脚注の使い方]

参考文献

外部リンク





固有名詞の分類

このページでは「ウィキペディア」から馬仲英を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から馬仲英を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から馬仲英 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「馬仲英」の関連用語

馬仲英のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



馬仲英のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの馬仲英 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS