馬亨とは? わかりやすく解説

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馬亨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/01 14:10 UTC 版)

馬 亨(ば きょう、1207年 - 1277年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。字は大用。邢州南和県の出身。

概要

馬亨は代々農耕を生業としてきた家の出で、幼くして父を亡くしたが、母を支えて金末に吏となった。オゴデイ・カアンの治世の1230年庚寅)、華北で十路徴収課税使が任命されると、河北東西路使の王晋にとして仕えるようになった。1234年甲午)、王晋は中書令の耶律楚材に馬亨を推薦し、やがて馬亨は転運司知事・転運司経歴・転運司副使を歴任した[1]

1250年庚戌)、劉秉忠が馬亨を皇族のクビライに推薦し、馬亨は八春・忙哥の補佐とされた。1253年癸丑)にはクビライを総司令とする雲南・大理遠征が始まったが、馬亨は遠征に同行せず、クビライの領地である京兆の榷課所長官(ほぼ同時期、フレグの配下である常徳府が宣課使という役職に任じられているが、これは榷課所長官と同じ職務を持った役職とみられる)に任じられた[2]。以後、馬亨は寛容な統治に努め、5年にわたって京兆の民心は安定したという[3]

ところが1257年丁巳)、かねてよりクビライの方針に不満を抱いていたモンケ・カアンが配下のアラムダールを派遣し、京兆におけるクビライの権益を取り上げようとした[4]。この時、馬亨は銀500両を徴収して藩府に収める所であったが、「銀を藩府に届けなければ罪を受ける」と抗弁してアラムダール配下の追及を一時逃れた。しかしこれを知ったアラムダールは怒って藩府まで使者を派遣し、馬亨はこれを庇おうとするクビライの好意を断って拘留された。馬亨は多くの尋問を受けたが最終的には釈放され、この時クビライからは銀32鋌を下賜されている。1259年己未)、クビライによる鄂州包囲に従い、山西・河東・陝右・漢中での撫諭を行っている[5]

その後、1260年(中統元年)にクビライが即位すると陝西・四川宣撫司が設立され、馬亨は陝西宣撫司議事に任じられた。さらに陝西四川規措軍儲転運使に改められ、帝位継承戦争においては宣撫使の廉希憲商挺らと協力して劉太平らを誅殺することで陝西方面を押さえた。その後、行中書省の制度が始まると陝西行省左右司郎中を兼ねるようになり、民の負担を和らげるよう努めたという[6]

1263年(中統4年)には陝西五路西蜀四川廉訪都転運使の地位に遷り、さらに工部侍郎・解州塩副使の地位を授けられた。このころ、東宮三師・中書省・宰相・中書左右丞・六部・御史台などにかかる「六事」についてクビライに上疏している[7]

1266年(至元3年)には嘉議大夫・左三部尚書の地位に進み、さらに戸部尚書に改められた。このころ、西域の商人が制国用使アフマドを後ろ盾に交鈔の流通に手を出そうとしていたが、馬亨の反対によってとめられている[8]

1270年(至元7年)には尚書省が新設されて馬亨も配属されたが、馬亨は尚書省の職務は本来中書省に属するものであると主張し、尚書省を取り仕切るアフマドと対立した。そのために地位を失い、右丞のアリー・左丞の姚枢とともに襄陽・樊城の戦いの後方補給を担当した。襄陽城が陥落した後、1273年(至元10年)には京師に帰還した。クビライは再び馬亨を任用しようとしたが馬亨は既に病に冒されており、1277年(至元14年)に71歳にして死去した。息子には雲南諸路道粛政廉訪司副使となった馬紹庭がいた[9]

脚注

  1. ^ 『元史』巻163列伝50馬亨伝,「馬亨字大用、邢州南和人。世業農、以貲雄郷里。亨少孤、事母孝、金季習為吏。庚寅、太宗始建十路徴収課税使、河北東西路使王晋辟亨為掾、以才幹称。甲午、晋薦于中書令耶律楚材、授転運司知事、尋陞経歴、擢転運司副使」
  2. ^ 松田1980,52頁
  3. ^ 『元史』巻163列伝50馬亨伝,「庚戌、太保劉秉忠薦亨于世祖、召見潜邸、甚器之。既而籍諸路戸口、以亨副八春・忙哥撫諭西京・太原・平陽及陝西五路、俾民弗擾。既還、図山川形勢以献、餘使者多以賄敗、惟亨等各賜衣九襲。癸丑、従世祖征雲南、留亨為京兆榷課所長官。京兆、藩邸分地也、亨以寛簡治之、不事掊克、凡五年、民安而課裕」
  4. ^ 松田1980,52頁
  5. ^ 『元史』巻163列伝50馬亨伝,「丁巳、憲宗遣阿藍答児等覈藩府銭穀、亨時輦歳辦課銀五百鋌、輸之藩府、道出平陽、適与之遇。亨策曰「見之、則銀必拘留、不見、則必以罪加我、与其銀弗達王府、寧獲罪焉」。避而過之、阿藍答児果怒、遣使逮之王府。世祖詢亨曰『汝往、得無摭汝罪耶』。対曰『無害、願一行』。乃慰遣亨。既至、拘繋之、窮治百端、竟無所得、惟以支竹課分例銭充公用、及僦公廨輦運脚価為不応、勒償其直而已。世祖知其誣、更賜銀三十二鋌。己未、従世祖攻鄂州、洎北還、遣亨馳駅往西京等処罷所簽軍、並撫諭山西・河東・陝右・漢中。既還、復遣転餉江上軍実」
  6. ^ 『元史』巻163列伝50馬亨伝,「中統元年、世祖即位、陝西・四川立宣撫司、詔亨議陝西宣撫司事。尋賜金符、遷陝西四川規措軍儲転運使。時阿藍答児等叛、亨与宣撫使廉希憲・商挺合謀、誅劉太平等、悉定関輔。尋建行省、命亨兼陝西行省左右司郎中。時興元畜糧五万石、欲転餉大安軍、計傭直万緡、衆推亨往、時丁内艱、以摂省府事強起之。至則以兵官丁産均其役、不閲月而事集、無労民傷財之嘆。興元判官費正寅狡悍不法、莫有能治之者。亨白省府、欲以法縄之、反誣搆行省前保関中有異謀、詔右丞粘合珪讞之、亨力辯之、冤搆釈然」
  7. ^ 『元史』巻163列伝50馬亨伝,「四年、遷陝西五路西蜀四川廉訪都転運使。未幾、朝廷以考課檄諸路転運司、至則併転運司入総管府、咸奪其制書、授亨工部侍郎・解州塩副使。亨乃上言『以考課定賞罰、其人甫集、而一切罷之、則是非安在。宜還其命書、俾仕者有所勧勉』。従之。亨復上便宜六事、一曰東宮保傅当用正人、以固国本。二曰中書大政、択任儒臣、以立朝綱。三曰任相惟賢、官不必備、今宰相至十七員、宜加裁汰。四曰左右郎署毗賛大政、今用豪貴子弟、豈能賛襄。五曰六曹之職分理万機、今止設左右二部、事何由辦。六曰建元以来、便民条画已多、有司往往視為文具、宜令憲司糾挙、務在必行。疏聞、帝即召見、有旨『卿比安在、胡不早言』。亨対曰『新自陝西来覲』。帝諭曰『卿久著忠勤、自今不令卿遠出矣』」
  8. ^ 『元史』巻163列伝50馬亨伝,「至元三年、進嘉議大夫・左三部尚書、尋改戸部尚書、金穀出納、有条不紊。時有賈胡、恃制国用使阿合馬、欲貿交鈔本、私平準之利、以増歳課為辞。帝以問亨、対曰『交鈔可以権万貨者、法使然也。法者、主上之柄、今使一賈擅之、廃法従私、将何以令天下』。事遂寝。亨又建言立常平・義倉、謂備荒之具、宜亟挙行。而時以財用不足、止設義倉」
  9. ^ 『元史』巻163列伝50馬亨伝,「七年、立尚書省、仍以亨為尚書、領左部。亨上言『尚書省専領金穀百工之事、其銓選宜帰中書、以示無濫』。尋為平章阿合馬所忌、以誣免官。会国兵囲襄・樊、廷議河南行省調発軍餉、詔以阿里為右丞・姚枢為左丞・亨為僉省任其事、水陸供餽、未嘗有闕、亨之力為多。十年、還京師、帝方欲柄用之、遂嬰末疾。十四年、卒、年七十一。子紹庭、雲南諸路道粛政廉訪司副使」

参考文献




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