陳遐齢とは? わかりやすく解説

陳遐齢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 06:04 UTC 版)

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陳遐齢
プロフィール
出生: 1873年同治13年)
死去: 1950年12月
中華人民共和国湖南省漵浦県
出身地:  湖南省辰州府漵浦県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 陳遐齡
簡体字 陈遐龄
拼音 Chén Xiálíng
和名表記: ちん かれい
発音転記: チェン シャーリン
ラテン字 Ch'en Hsia-ling
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陳 遐齢(ちん かれい)は中華民国の軍人。西康地域などで活動した。立鶴。号は雲皋

事跡

1894年光緒20年)、甲午武挙に合格する。後に日本へ留学して陸軍士官学校を卒業した。1907年(光緒33年)、標統として四川省に赴任した。

1917年民国6年)10月、護理川辺鎮守使に任ぜられ、西康地域に割拠した。翌年2月、熊克武の後任として正式に川辺鎮守使に任命された。4月、チベット軍が西康を攻撃してくると、陳はこれを迎撃した。しかし、北京政府中央の支援が望めなかったため、8月、和議を結んでいる。以後、7年に渡り陳は川辺鎮守使の地位にあり、1922年(民国11年)、北京政府から康威将軍の位も授与された。

しかし1924年(民国13年)5月に劉湘が川辺(川康)防務督弁に任じられると、川辺鎮守使の陳遐齢と鼎立関係になった。その後、陳は川軍指揮官である劉成勲の攻勢に押され、劉成勲は同年12月に劉湘の後任として川辺防務督弁に任じられている。1925年(民国14年)2月、川辺防務督弁は西康屯墾使に改組され、引き続き劉成勲がその地位に就いた。一方の陳は、大勢が決したと見て下野し、同時に川辺鎮守使も廃止されている。

下野後の陳遐齢はしばらく北京に隠居していた。1937年(民国26年)に帰郷する。その後は、湖南省参議会参議員などの職をつとめ、地方の名士として様々な社会事業に取り組んだ。中華人民共和国成立後も、そのまま故郷に留まっている。

しかし1950年12月、陳遐齢は反革命罪を問われて中国共産党により殺害された。享年78。1984年5月、共産党は冤罪による処刑であったことを認めて陳の名誉を回復し、あわせて「愛国人士」との認定も行っている。

参考文献

  中華民国(北京政府)北京政府
先代:
熊克武
川辺鎮守使
1918年2月 - 1925年2月
次代:
(廃止)




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