西康への転進、最終的敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 03:45 UTC 版)
その後の劉成勲は辺境地域への勢力拡大を図り、川辺鎮守使陳遐齢に攻勢を加え、雅安などを占領した。1924年(民国13年)12月、劉成勲は劉湘の後任として川辺防務督弁に任命される。次いで1925年(民国14年)2月には、同職を改組した西康屯墾使に任命された。 しかし、まもなく呉佩孚の支援を受ける四川督理楊森が四川統一の戦いを発動する。この際に、劉成勲が真っ先に楊の標的にされ、敗北を重ねた。幸いにも、劉湘ら他の川軍指揮官が反楊森に回り、劉成勲もこれに呼応することで楊を撃退することができた。 1926年(民国15年)、国民政府の北伐が優位であることを知ると、劉成勲もこれに呼応する。同年11月、国民革命軍第23軍軍長に任命され、12月に雅安で就任宣誓を行った。劉成勲は同じく国民革命軍に加わった劉湘、劉文輝に北伐への参戦を呼びかけている。ところが四川を離れることを望まなかった劉湘・劉文輝は急遽連合を結成し、劉成勲討伐を開始した。劉成勲はこれに敵し得ず、本拠地の雅安も陥落させられてしまう。ついに1927年(民国16年)6月、劉成勲は下野を宣言した。これにより、劉成勲の軍事・政治の経歴は、完全に終了したのである。以後、果樹園経営などで晩年を送った。 1944年(民国33年)12月、大邑にて病没。享年62。
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