西府軍団領袖とは? わかりやすく解説

西府軍団領袖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 09:42 UTC 版)

庾翼」の記事における「西府軍団領袖」の解説

咸康6年340年)に庾亮没する都督司雍益六州諸軍事・安西将軍荊州刺史となり庾亮西府軍団後継として武昌に鎮した。庾翼領地地方都にまで軍令行き届かせ、数年の内に官府の庫や人民たちの財までも充実させるなど良政敷いたので、後趙領でも黄河以南の地の人民から支持得たという。建元元年343年)に後趙汝南郡太守である戴開が数千人を伴って投降してきた事を機に庾翼北伐大志を抱くようになり、前燕慕容皝前涼張駿使者送って期が来れば同調して起兵するよう求めた。またこれに伴って領内での賦役強化するようになり、広州海道の人を百姓として徒民させた。 康帝司馬岳)に庾翼北伐上表し、加えて鎮を対後趙最前線である襄陽へと移すことへの許可求め承認得ぬうちから六州から牛や驢馬徴発始めていたが朝廷却下され続いて安陸への移鎮を求めるもこれも却下された。これらの行動車騎参軍孫綽諌められるも聞く持たず夏口へと勝手に軍団移動させて再度襄陽への移鎮を上表すると、実兄庾冰桓温、譙王司馬無忌らの賛成によって襄陽への移鎮が承認され都督征討諸軍事(後に征西将軍南蛮校尉追加)となり、庾翼代わりに庾冰武昌へと移り後任入った建元2年344年)、庾翼桓宣後趙占拠されていた樊城攻略命じたが、桓宣丹水戦いで後趙羆の前に大敗喫し、これに激怒した庾翼桓宣を建威将軍降格した上で峴山へと左遷した同年中に成漢討伐に周撫と曹璩を向かわせたが、江陽桓に敗れたまた、11月庾冰亡くなると長子の庾方之に襄陽守備任せて夏口へと移り庾冰の領兵を自らの指揮下に置き、朝廷からは江州豫州刺史任じられたが豫州刺史辞退し替わりに楽郷への移鎮の許可要求した朝廷拒否された。

※この「西府軍団領袖」の解説は、「庾翼」の解説の一部です。
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