「新疆王」になるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:26 UTC 版)
盛世才は、1892年に遼寧省開原に生まれた。1917年に日本の明治大学に留学したが、ヴェルサイユ講和会議での旧ドイツ権益の日本への譲渡や、1918年5月の「日華軍事防敵協定」の締結に憤慨して、中国に帰国。その後、国民政府の軍官学校である雲南講武堂韶州分校に入学した。 その後、奉天軍閥の郭松齢の支援により、日本の陸軍大学校に留学。1930年には、新疆省政府からの招きで、新疆に赴き、当地の軍官学校の教官に任命された。 1932年に、ハミのホージャ・ニヤズが反乱を起こし、甘粛の回族軍閥(馬家軍)の馬仲英を誘い、馬仲英の部下馬世明とともに省都ウルムチを攻撃したが、盛世才は省政府軍を指揮してこれを2度にわたり撃破した。1933年1月、馬世明がウルムチに再侵攻したが、これも馬仲英に挫かれた。 1933年4月12日に、省政府内で参謀処長の陳中らが東北抗日義勇軍の残部やソビエトから逃亡してきた白系ロシア人部隊と組んでクーデター(四・十二クーデター)を起こした。盛世才は静観を決め、軍事力がなかった新疆省政府主席の金樹仁はすぐに負け、ソ連に亡命を追いやられた。この結果、軍事力や威信があった盛世才は新疆省臨時督弁に推挙された。 督弁に推挙された盛世才だったが、臨時政府の他成員とは疑心暗鬼な状態であった。1933年6月、新疆の内乱の平定及びを国民政府への編入のため南京から宣慰使として派遣された黄慕松が盛世才を追い落そうとするのを盛世才が気付き、6月25日、盛世才は四・十二クーデターの首謀者の陳中らは謀反罪の名目に銃殺し、黄慕松を軟禁した。同年10月、盛世才は同様に東北抗日義勇軍の指導者鄭潤成を銃殺し、同軍を解散させた。 国民政府はこれを追認せざるを得ず、8月1日に盛世才は新疆辺防督弁に正式に任命された。また、盛世才はソ連軍の支援を得て、ウルムチを脅かしていた馬仲英軍を撃退した。さらに、新疆東部を支配していた東トルキスタン・イスラーム共和国勢力に対して、ソ連を仲介して接触し、共和国大統領ホージャ・ニヤズを省政府側に寝返らせ、共和国を崩壊させた。 1933年12月には、国民政府が任命した省政府主席劉文龍を軟禁して、老人の朱瑞墀を政府主席に据えた。1934年3月に朱瑞墀が病没すると、国民政府はやむなく盛世才を新疆省政府主席に任命した。盛世才は、省政府の漢人官僚から反対勢力を一掃する一方、ソ連への配慮から、ホージャ・ニヤズを省政府副主席に任命するなど、ソ連の支援を受けていたテュルク系ムスリム勢力との宥和を図った。
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