「新羅人」考証
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『松漠紀聞』などには、函普は「新羅人」と書かれている。函普を「新羅人」と記述している史料は以下である。 著者著書記述内容洪皓(中国語版) 『松漠紀聞』 女真酋長(指函普)乃新羅人,號完顏氏。完顏,猶漢言王也。女真以其練事,後隨以首領讓之。兄弟三人,一為熟女真酋長,號萬戸。其一適他國。完顏年六十餘,女真妻之以女,亦六十餘,生二子,其長即胡來也。自此傳三人,至楊哥太師無子,以其侄阿骨打之弟諡曰文烈者為子。其後楊哥生子闥辣,乃令文烈歸宗。 徐夢莘 『三朝北盟会編(中国語版)』 (女真)酋長本新羅人,號完顏氏,完顏猶漢言王。女真以其練事以為首領,完顏之兄弟三人,一為熟女真酋長,號萬戸,其一適他國。完顏年六十餘,女真妻之以女,亦六十餘,生二子,其長即胡來也,自此傳三人至楊哥太師以至阿骨打。 李心伝 『建炎以来朝野雑記』 完顏之始祖指浦(函普)者,新羅人,自新羅奔女真,女真諸酋推為首領。七傳至而始大,所謂阿骨打也。 李心伝 『建炎以来繋年要録』 即阿固達(阿骨打),其先新羅人也。 陳均 『九朝編年備要』 女真,其初部族本新羅人,號完顏氏。完顏,猶漢言王。女真妻之以女,生二子,其長烏古廼也。自此傳三人,至英格太師以至阿固達(阿骨打)。 不明 『続編両朝綱目備要』 完顏之始祖浦(函普)者,新羅人,自新羅奔女真,女真諸酋推為首領,七傳至而始大,所謂阿骨打也。 宇文懋昭 『大金国志』 或又云,其初酋長本新羅人,號完顏氏。完顏,猶漢言王也。女真妻之以女,生二子,其長即胡來也。其自此傳三人至楊割太師,以至阿骨打。 馬端臨 『文献通考』 又云,其酋本新羅人,號完顏氏,猶漢言王也。女真服其練事,以首領推之。其酋自龕福(函普)以下班班可紀。 これらの史料は、函普を「新羅人」、そして三兄弟であり、後に函普は生女真(中国語版)完顔部の酋長となり、三兄弟の一人は熟女真(中国語版)の酋長となり、一人は他国に行ったと記している。趙永春(吉林大学)の考証によると、これらの史料の函普の記事は基本的に同様であり、文言・語句まで酷似している。これは、函普の記事内容に関する情報源が同じであることを意味する。これらの史料の著者に共通するのは、すべて宋または後期宋と元初の人々であり、女真が台頭した時代に比較的近く、女真の台頭について理解しておく必要があるため、函普の初期記録について、様々な各種史料を参照したとみられる。以上から、これらの史料が完成した年代順を遡ると、函普の記事内容に関する情報源は、洪皓(中国語版)が著した『松漠紀聞』にたどり着く。洪皓は、金に15年間抑留され、女真の貴族である完顔希尹(中国語版)の一族が生活する冷山に住んでいた。結果、宋の人々や後世の人々が函普を理解するための重要な情報源となった。しかし、洪皓が女真のなかで生活していたのは、函普没後100年以上経過しており、函普から直接聞いたのではなく、口承であることは疑いない。口承である以上、事実もあれば、事実と異なるものもあり、函普が女真から得た口承が事実であったとしても、理解や回想に食い違いが生じる場合もある。実際、『松漠紀聞』には数多の間違いがある。例えば、『松漠紀聞』には、函普に「二人の息子がおり、その長男が胡来である」とあるが、実際は「胡来」は、金景祖である烏骨廼(中国語版)のことであり、『金史』世紀によれば、烏骨廼は函普の六世の孫であり、洪皓が烏骨廼を函普の息子としているのは明らかに誤りである。 この他にも『松漠紀聞』には数多の誤りが指摘されており、『松漠紀聞』が完全に信頼できる史料ではないため、函普の記事内容も誤りがある可能性を排除できない。『松漠紀聞』は、函普が「新羅人,号(称号)完顔氏。」と記しているが、事実と異なり、新羅や高麗王朝に完顔氏は存在せず、女真にのみ存在する。『松漠紀聞』にある函普の「号(称号)完顔氏。」は、函普が新羅人であることを説明していないばかりか、逆に函普が女真であることを示している。 上記の史料は、『松漠紀聞』の記録に基づき、函普を「新羅人」と記しているが、『松漠紀聞』の記録を疑問視する意見がある。『文献通考』は「又云」、『大金国志』は「或又云」、つまり「また(あるいは)とも言われている」と不確定的な書き方をしており、『松漠紀聞』の記事に納得していないことが窺われる。「又云」あるいは「或又云」という不確かな説法の『文献通考』『大金国志』の両史料は、後代に大きな影響を及ぼしており、清代に編纂された『満洲源流考』は、『文献通考』『大金国志』に基づき、「金之始祖諱哈富(函普),初從高麗來,按通考及大金國志皆云,本自新羅來,姓完顔氏,考新羅與高麗舊地相錯,遼金史中往往二國互稱不為分別,以史傳按之,新羅王金姓,相傳数十世,則金之自新羅來,無疑建國之名,亦應取此,金史地理志,乃云以國有金水源為名,史家附會之詞未足憑耳,居完顔部」と記している。『文献通考』『大金国志』が参照した『松漠紀聞』に疑念がある以上、『文献通考』『大金国志』を孫引きしている『満洲源流考』にも疑念が生じる。『満洲源流考』は、『金史』地理志を「史家附会之詞(史家の附会の言葉)」と罵倒しているが、『満洲源流考』によると、女真が金を国号としたのは、新羅王家の姓氏に由来したといい、事実上の附会の言葉になっている。さらに、『満洲源流考』が収集した史料は、中国王朝の過去の正史の記録であり、満洲族独自の伝承はほとんど収集されておらず、渤海国の首都である上京龍泉府の遺跡を金の上京会寧府の遺跡に比定したように、考証が杜撰であることを指摘する意見がある。 明代に編纂された『高麗史』は、「或曰:昔我平州僧今俊遁入女真,居阿之古(按出虎)村,是謂金之先。或曰:平州僧金幸之子克守初入女真阿之古村,娶女真女生子曰古乙太師,古乙生活羅太師,活羅多子,長曰劾里鉢,季曰盈歌。盈歌最雄傑,得衆心。盈歌死,劾里鉢長子烏雅束嗣位。烏雅束卒,弟阿骨打立。」としているが、函普が高麗王朝平州僧侶今俊(金俊)、あるいは高麗王朝平州僧侶金幸の息子という根拠を一切提示しておらず、函普が高麗王朝平州僧侶今俊であると断言せずに、曖昧に「或曰(あるいは曰く)」としており、高麗王朝に伝わる不確定情報に過ぎないことを示唆している。
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