「新近代主義」の提唱
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小谷野は社会問題全般に関しても積極的な発言をしている。小谷野の恋愛研究は、前近代を賛美して近代の制度を批判する傾向に対する反措定であったが、社会思想においても、ポストモダン思想の虚妄を批判して、近代的理念を再評価する「新近代主義」の立場を取り、現代日本の論壇人への容赦のない批判で知られる[要出典]。『すばらしき愚民社会』では大衆批判を展開しているが、小谷野の言う大衆とは知的大衆、すなわち一般知識人、読書人階層である。いわゆる大衆の迷妄よりも、知的な言論において暗黙のうちに前提とされ、ドグマと化す観念の迷妄を撃つことに小谷野の批評のモチーフがある。 『中庸、ときどきラディカル――新近代主義者宣言』では自らの政治的立場を、「共和主義者」と規定している。小谷野によれば、日本のいわゆる右派、保守派はロイヤリスト(王党派)に過ぎないが、これとは異なり、身分差別に基づく天皇制を否定する、近代的なナショナリズムが「共和主義」である。ゆえに小谷野は天皇制廃止論者であると共に、憲法第9条改定論者でもあり、アメリカのイラク戦争を支持した。戦争に反対する知識人は恵まれた特権階級であるが、栄誉と縁のない普通の民衆は戦争によるカタルシスを欲している以上、戦争は止められないと分析した。 『なぜ悪人を殺してはいけないのか』では、死刑制度の存続を主張している。死刑廃止を主張する者は、釈放された凶悪殺人犯が自分の家の隣に住んだらどうするのかと小谷野は問う。この世に明らかな「悪」が存在する限り、正義の実現としての死刑は必要であるという。また死刑を廃止するかわりに敵討ちを認めればいいという議論に対しては、敵討ちをしてくれる遺族のいない孤独な被害者はどうなるのかと問い、国家による制裁が必要であると主張している。 また、学歴偏重主義については「「学歴差別」という言葉自体、おかしな言葉である。今の日本で、貧しくて上の学校へ行けなかったなどという人はあまりいないのだし、能力で人を区別するのは当然である。能力差別がいけないなら、試験はいけないのか。「差別」というのは、「いわれなく人の地位を定めること」だから、生まれで差別する天皇制は差別だ。しかし、生まれつき大東文化大学卒というやつはいない」「東大出身者同士の間では、三流私大なんかさんざんバカにされているに決まっているのであって、事実そうなのである」 と発言し、これを肯定している。職業差別についても「言うまでもないが、体育教師は、どこでも、バカで野蛮である。私は体育教師を差別する。私が独裁者になったら、体育教師をガス室送りにするかもしれない」 と公言し、これを肯定する立場を取る。
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