「新絵画」の刊行とミュンヘン新芸術家協会の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 06:19 UTC 版)
「ミュンヘン新芸術家協会」の記事における「「新絵画」の刊行とミュンヘン新芸術家協会の終焉」の解説
1912年のオーバーストドルフの避暑から戻ったヴェレフキンとヤウレンスキーは、上品な装丁で刷り上がったミュンヘン新芸術家協会第四回展のための冊子「新絵画(Das Neue Bild)」を受け取った。冊子はテキストと9人の芸術家、ベヒテイェフ、バーレラ・ボッシ、エルプスレー、ジリウー、ヤウレンスキー、カノルト、コーガン、モジレフスキー、そしてヴェレフキンによる挿絵で構成されていた。 ヴェレフキンはこの本のテキストとそれぞれの芸術家の解説文が気に入らず、腹を立てた。ヤウレンスキー、ベヒテイェフ、モジレフスキーは彼女の意見に同調した。この一派と、もう一つの派閥であるエルプスレーの取り巻きとの間には、広範にわたる激情的な書簡の往来があった。それに加えて、バックグラウンドや内輪の不一致もあって、計画されていた第四回展は実現の見込みがなくなった、と、リヒャルト・ライヒェ(Richart Reiche, 1876 - 1943)に宛てられたヴェレフキンの手紙の中で述べられている。リヒャルト・ライヒェは、当時のバルメン、現在のヴッパータル市区の芸術協会の長であった。最終的に不和の拡大により、ヴェレフキンとヤウレンスキーは同年の終わりにミュンヘン新芸術家協会を後にした。この時点から数年の間、一応協会は存続していたが、実質的には書類上だけの存在となってしまった。1920年の初めに、エルプスレーによってミュンヘン新芸術家協会は正式にミュンヘン市の協会登記簿から抹消された。
※この「「新絵画」の刊行とミュンヘン新芸術家協会の終焉」の解説は、「ミュンヘン新芸術家協会」の解説の一部です。
「「新絵画」の刊行とミュンヘン新芸術家協会の終焉」を含む「ミュンヘン新芸術家協会」の記事については、「ミュンヘン新芸術家協会」の概要を参照ください。
- 「新絵画」の刊行とミュンヘン新芸術家協会の終焉のページへのリンク