チャールズ・ダーウィンの進化論
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「進化論」の記事における「チャールズ・ダーウィンの進化論」の解説
詳細は「自然選択説」を参照 チャールズ・ダーウィンは、1831年から1836年にかけてビーグル号で地球一周する航海をおこなった。航海中に各地の動物相や植物相の違いから種の不変性に疑問を感じ、ライエルの『地質学原理』を読んだ。そして地層と同様、動植物にも変化があり、大陸の変化によって新しい生息地が出来、動物がその変化に適応したのではないかと思った。1838年にマルサスの『人口論』を読み自然選択説を思いついたと自伝には書かれている。ハトの品種改良についての研究でさらに考えがまとまっていった。 1858年にアルフレッド・ウォレスがダーウィンに送った手紙に自然選択説と同様の理論が書かれていたことに驚き、自然選択による進化理論を共同で発表したダーウィンはさらに執筆中であった『自然選択』と題された大著の要約をまとめ、1859年11月24日に『種の起源』として出版した。 『種の起源』のなかでは、現在の「進化」を指す用語として、あらかじめ内在的に用意された構造の展開出現を意味する"evolution"ではなく、「変更を伴う由来」(Descent with modification)という語を使っている(evolutionの原義については下の項目を参照のこと)。また自然選択(natural selection)、存在し続けるための努力(struggle for existence、現在では通常生存競争と訳される)、そして後の版ではウォレスの提言を受け入れ自然選択をわかりやすく説明する語としてハーバート・スペンサーの適者生存を使用した(生存競争や適者生存は誤解を招きやすいために近年では用いられない)。これらの要因によって環境に適応した形質を獲得した種が分岐し、多様な種が生じると説明した。 ダーウィンの説の重要な部分は、自然淘汰(自然選択)説と呼ばれるものである。それは以下のような形で説明される。生物がもつ性質は、同種であっても個体間に違いがあり、そのうちの一部は親から子に伝えられたものである。 環境収容力は常に生物の繁殖力よりも小さい。そのため、生まれた子のすべてが生存・繁殖することはなく、性質の違いに応じて次世代に子を残す期待値に差が生じる。つまり有利な形質を持ったものがより多くの子を残す。 それが保存され蓄積されることによって進化が起こる。 生物の地理的分布や、異性間に起きる選択である性選択についても説明した。 当時は DNA や遺伝の仕組みについては知られていなかったので、変異の原因や遺伝についてはうまく説明できなかった。ダーウィンの遺伝理論はパンジェネシス(パンゲン説)と呼ばれ、獲得形質の遺伝や当時主流であった融合遺伝を認めていた。また発生と進化を明確に区別していなかった。 変異はランダムな物であると考えた。ここで言うランダムとは「規則性が全く無い」と言う意味ではない。ダーウィンは変異について確実なことを述べられるような知識を何も持っていなかった。変異がランダムであるとは、変異それ自体には進化の方向性を決める力が内在しないと言う意味である。 進化を進歩とは違うものだと認識し、特定の方向性がない偶然の変異による機械論的なものだとした。 「自然は跳躍しない」という言葉で、進化は漸進的であると主張した。これは「進化は一定速度で進む」事を意味しない。文字通り跳躍的な進化を否定するのみである。進化は小さな遺伝的変異の蓄積によって起きる。その結果として、体節数の変化のような大きな形態的変化が起きる可能性はあるが、目や脳などが一世代でできることはない。 一つあるいは少数の祖先型生物から全生物が誕生した。そして一つの種が二つに分かれる過程を種分化と呼んだが、種分化のメカニズムに関しては深く追求しなかった。 ダーウィンは、進化の概念を多くの観察例や実験による傍証などによって、科学的理論に高めようと試みた。 ウォレスは性選択説を認めず非適応的と思われる形質(例えばクジャクの羽)も自然選択で説明しようと試みたが、これは現在の優良遺伝子説に近い説明であった。またウォレスは人間の高い知性や精神的能力は神のような超自然的存在の干渉によるものだと考えた。
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