指揮官への任命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/27 21:58 UTC 版)
「ヴァルター・フォン・ビューロウ=ボートカンプ」の記事における「指揮官への任命」の解説
ビューロウ=ボーテカンプは第36戦闘飛行中隊(Jagdgstaffel 36:Jasta 36)の指揮官に任命されて直ぐの1917年5月21日にブーヴァンクールでフランスの観測気球を2基撃墜した。臀部に負った怪我のお陰で暫くの間は戦果とは縁が無かったが、7月6日から12月2日まで徐々に撃墜数を伸ばしていった。この躍進中の10月8日に21機撃墜の功でプロイセン王国とドイツ帝国の双方で最も権威ある勲章のプール・ル・メリット勲章を授与された。 12月2日にビューロウ=ボーテカンプは、第20飛行隊(No 20 Squadron)の24機撃墜のエース・パイロットのハロルド・ラックフォード(Harold Luchford)少尉が搭乗するブリストル戦闘機を撃墜し、ラックフォードは戦死した。これがビューロウ=ボーテカンプの28機目で最後の撃墜記録となった。 12月13日にビューロウ=ボーテカンプはオスヴァルト・ベールケの古巣でより有名な部隊の第2戦闘飛行中隊(Jagdgstaffel 2:Jasta 2)の指揮官に異動した。 1918年1月6日にヴァルター・フォン・ビューロウ=ボーテカンプは、イーペル近郊で僚機とともにイギリス陸軍航空隊(RFC)の第23と第70飛行隊との格闘戦に突入したが、この戦いを生き残ることはできなかった。ビューロウ=ボーテカンプの撃墜者としてRFCのエース・パイロットのフランク・G・クウィグリー大尉とウィリアム・F・フライ(William M. Fry)大尉の名が挙がっている。 ヴァルターは、1914年に戦死した長兄のフリードリヒが入っている一家の城の墓地に埋葬され、ヴァルターと同じ年に弟のコンラートもそこに仲間入りした。
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