指揮官の歴任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 15:24 UTC 版)
マシューズは、1704年からドーバー海峡でキングセール(英語版)で、1708年10月にはグロスター(英語版)でそれぞれ指揮を執った。その次に乗務したのは、新たに作られたチェスター(英語版)で、バークレー卿率いる海峡艦隊の1隻であった。この艦隊は1709年の初頭に、ルネ・デュグエ=トゥルアンの小規模なフランス艦隊と出くわした。イギリス軍はこの艦隊を追跡して、フランス艦隊が拿捕したブリストル(英語版)を取り返し、フランス艦のグロワールを拿捕した。 マシューズと軍艦チェスターは、その後1710年にジョージ・マーティン准将の艦隊に加わり、ノバスコシアの征服と攻略に参戦した。1711年の夏、マシューズは護送船団を率いてニューヨークに向かった後、ボストンのサー・ホーヴェンデン・ウォーカーに合流した。チェスターはこの遠征で大嵐に遭ってひどく破損し、イギリスに修理のため戻された。この遠征の後マシューズは艦上の任務を退き、その後の数年間を家族と共にランダーフで過ごした。 1718年1月、四カ国同盟戦争の勃発後にマシューズは戦列に復帰し、ケントが修理に出されている間、プリンス・フレデリック (戦列艦)(英語版)の臨時の指揮を執った。1718年3月31日にはケントの指揮官となり、ジョージ・ビングの指揮下にある地中海艦隊に加わった。パッサロ岬の戦いに参戦したマシューズは、メッシーナの封鎖に部隊を率いて赴き、スペイン軍に加わっていたイギリス人中将のジョージ・カモックを、成功を期待しつつ迎撃した。しかしカモックはどうにかイギリス軍を避け、1月に小船で逃亡した。イギリス軍は1720年の秋までシチリアを封鎖し、そしてマシューズとビングは帰国した。 マシューズは、イギリス政府が海賊退治のために派遣した艦隊のリーダーとして「ライオン号」に乗り込みマダガスカルへ向かった。これは1718年にウッズ・ロジャーズがニュープロビデンス島の海賊たちを壊滅させた後、マダガスカルを新たな住処として、海賊行為を行う者たちを退治するためであった。しかしセントオーガスティン湾(英語版)に到着したマシューズはその地に海賊は居ないと判断して、後続船が来ない内にボンベイに向かってしまった。1722年から1724年まで、マシューズは東インド諸島に小艦隊を率いて、マラバール・コーストの、マラーター同盟提督カナージ・アングリアを追放する任務に就いた。マシューズの艦隊が現れたことで、アングレの活動はかなりの窮地に陥った。しかし、彼らの砦は難攻不落だった。マシューズの艦隊は、ヴィジャイドゥルグとコラバの両砦を攻撃するために、ゴアから出航したポルトガルの部隊を支援したが、撃退された。1724年にマシューズはイギリスへ戻り、それ以来海軍からは大々的に身を引いて、昇進も受けなかった。1736年になって、チャタム造船所の長官となったが、この職は軍人ではなく文官のものであるとみなされていた。
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