指揮官からの解任とサバンナの戦い 1778年
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「ロバート・ハウ」の記事における「指揮官からの解任とサバンナの戦い 1778年」の解説
ハウが女性といちゃつくことについてサウスカロライナで陳述書が回覧された後、大陸会議はついに1778年9月25日、南部方面軍指揮官職からハウを解任し、ベンジャミン・リンカーン少将を後任に据えた。ハウは南部方面軍に留まり、サバンナから指揮を執った。サバンナでリンカーンが援軍を率いてくるのを待つ間、市の周りに防御陣を作り、迫りくる攻撃に備えた。ハウストン知事は再度ハウと口論し、ちっぽけな民兵の支援以上のことを拒んだ。 1778年12月29日、第一次サバンナの戦いのとき、イギリス軍は市の近くで上陸し、アーチボルド・キャンベルの指揮でハウが通過できないと考えていた湿地を通ることで、会戦に引きずり出されていたハウ軍の側面を衝いた。その前にハウは斥候に湿地を抜ける道を全て見張るように命令していたが、キャンベルの選んだ経路は奴隷によって教えられたものであり、愛国者軍には分かっていなかった。ハウの陣地はそうでなければ強力で防御に適していたが、愛国者軍の背後にイギリス軍が現れたことで恐慌をきたした。ハウ指揮下の民兵は即座に逃げ出し、500名以上の大陸軍兵と民兵が殺されるか捕虜になった。それに続く敗北でサバンナはイギリス軍に占領され、そのことでハウは大いに非難を浴びた。1779年1月3日、ハウは正式に指揮職をリンカーンに渡した。 サバンナにおける失敗によって、ジョージアの役人は国をイギリス軍に明け渡したと考えハウを批判した。また大陸軍の同僚であるウィリアム・ムールトリーなど将軍たちは、イギリス軍に対して勢力で大きく劣っているときも抵抗しようとしたとしてハウを責めた。その後開催された軍法会議における証言で、イギリス軍が選んだ湿地の道は知っていたが、この道を通って攻撃してくる可能性は「非常に少ない」と考えたので、守らなかったと述べた。これはジョージアの民兵士官ジョージ・ウォルトンが証言していたことと矛盾していた。ウォルトンは、ハウが戦闘前にこの道を知らず、湿地にこの道があることを誤って理解していたと述べたと証言していた。
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