東宮時代とは? わかりやすく解説

東宮時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 08:56 UTC 版)

後三条天皇」の記事における「東宮時代」の解説

生母藤原氏出でない(道長外孫ではあるが、関係は悪化していた)ため、関白藤原頼通・教通兄弟疎んじられたが、彼らの異母弟能信支援受けたと言われている。『今鏡』によると、後朱雀天皇尊仁親王を兄・親仁親王後冷泉天皇)の皇太弟にと考えていたのを、頼通抑えていたのに対し能信強く薦めて、その遺詔により皇太弟となる事が出来たとある。しかし、頼通や教通は、後冷泉天皇後宮に娘を入内させて外祖父として権力を握るために、尊仁親王に対して陽に陰に圧迫加えていた。その一例として、歴代東宮が伝領する壺切御剣」を頼通が「藤原氏(特に摂関家)腹の東宮宝物」との理由で、23年もの間、親王即位するまで献上しなかった事が、大江匡房談話集『江談抄』に記されている(ただし、誤伝説もある)。 ただし、尊仁親王祖母はともに藤原氏摂関家出身であり、親王即位して摂関家以外に外戚要件満たす家は存在しないこと、頼通尊仁親王の妃として後一条天皇皇女である馨子内親王入内させていること(馨子に皇子誕生して皇位継承しても、頼通皇子血縁関係大伯父姪孫関係し構築できないのは尊仁親王と全く同じである。ただし、実際に皇子生まれなかった)など、尊仁親王後三条天皇)と藤原氏摂関家)の血縁関係を「疎遠」の一言では片付けられない側面有している。このため頼通らは後朱雀天皇嫡男である後冷泉天皇系統皇位一本化する意図であったとする考えもある。 しかし、後冷泉天皇は、正式な后妃との間には、ついに成長した皇子恵まれることのないまま崩御し尊仁親王即位した

※この「東宮時代」の解説は、「後三条天皇」の解説の一部です。
「東宮時代」を含む「後三条天皇」の記事については、「後三条天皇」の概要を参照ください。

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