版画作品
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「ラファエロのカルトン」の記事における「版画作品」の解説
16世紀初頭には、盛期ルネサンスの洗礼を浴びて十分な技量を身につけていたイタリアの芸術家たちは、当時高く評価されていたドイツ人芸術家アルブレヒト・デューラーの版画技法も学び始めた。ラファエロには版画技法の知識はなく、あいつぐ美術作品の制作依頼に追われて版画技法を学ぶ時間もなかった。しかしながらラファエロは、版画家マルカントニオ・ライモンディ (en:Marcantonio Raimondi) とその工房との協業で自身の絵画作品を版画として広く流通させることによって、当時のイタリアにおいて絵画作品の評価を高めることにもっとも成功した画家となった。ラファエロは多くの版画専用のドローイングを描き、版画工房がそのドローイングをもとに版画を大量に生産した。また、制作された版画はつねにドローイングをもとにしてもので、ラファエロがヴァチカンなどの依頼で描いた絵画作品として完成、成立したものから版画が制作されることはなかった。ラファエロのドローイングによる版画は広く複製され複数の出版業者から大量に発行されることが多く、これらの版画作品は短期間のうちにヨーロッパ中に広まることとなった。 ラファエロが描いたシスティーナ礼拝堂のタペストリのデザインをもとにした版画で、記録に残る最古の作品はアゴスティーノ・ヴェネツィアーノ (en:Agostino Veneziano) が1516年に制作した『アナニアの懲罰』である。この版画はおそらくタペストリが完成する以前に制作された作品だとされている。カルトンと左右逆に織られているタペストリとは異なり、この版画では左右の向きがカルトンと同じになっている。版画作品の制作過程において、通常であれば原画と完成した版画の左右は逆向きになる。おそらくこの版画は『ラファエロのカルトン』の『アナニアの懲罰』ではなく、カルトンと同じくロイヤル・コレクションが所蔵している、『ラファエロのカルトン』の制作用下絵としてチョークで描かれた「アナニアの懲罰」のドローイングをもとにしていると考えられている。この下絵は『ラファエロのカルトン』の『アナニアの懲罰』とは左右が逆になっているのである。ラファエロの存命中にライモンディとヴェネツィアーノが制作した、ラファエロの作品をもとにした版画作品はすべてドローイングをもとにしている。ライモンディは『ラファエロのカルトン』のドローイングをもとにした版画作品のすべてを、1516年ごろに完成させた。ローマの芸術家たちの多くは、システィーナ礼拝堂のタペストリが完成する以前に版画を通じて『ラファエロのカルトン』を目にしていたのである。 ヴェネツィアーノの版画についてもすぐにいくつかの複製が作られた。それらの複製版画のうちもっとも有名なものが、ウーゴ・ダ・カルピ (en:Ugo da Carpi) が1518年に制作した多版四色刷りの版画である。このダ・カルピの版画は著作権標記がなされた初期の芸術作品として研究の対象となることがある。作品下部に著作権を主張するラテン語の文章があり、この版画がヴェネツィア共和国とローマ教皇庁からの特別の許諾を得ており、もしこれを侵すものがあれば教皇庁から破門される恐れがある旨が記述されている。『ラファエロのカルトン』からの複製された版画の多くはライモンディのオリジナルからの単純なコピーだったが、パルミジャニーノはラファエロのオリジナルをもとにした版画を1530年に自身で制作している。 17世紀のドイツ人版画家マテウス・メーリアンの聖書のエピソードを版画にしたエングレービング集では『ラファエロのカルトン』の構成が、やや強調されたより精緻な表現となって再現されている。このエングレービングは多くの書物に引用、複製され、ラファエロのデザインがさらに多くの人々の目に触れることとなった。 イングランド護国卿クロムウェルによってロイヤル・コレクションから売り払われた『ラファエロのカルトン』は17世紀後半にイングランドへと戻された。版画家たちはドローイングからではなく、絵画作品から直接版画を制作することが主流となっていった。18世紀には『ラファエロのカルトン』からのさまざまなヴァージョンの版画が流通しており、それぞの再現度、品質の面でもまた多種多様であった。
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