版画家としての出発
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1914年1月には恩地家に寄宿していた女子美術学校の学生と婚約。同年3月、日比谷美術館で開催された木版画展でワシリー・カンディンスキーらドイツ表現主義作家の抽象版画に深く共鳴し、この頃に版画の創作を始めたと思われる。春から夏にかけて田中・藤森とともに同人誌『月映(つくはえ)』(私輯)を6輯まで発行し、9月には洛陽堂から自画自刻の木版画と詩歌の雑誌『月映(つくはえ)』(公輯)が刊行。この頃から北原白秋や室生犀星や萩原朔太郎との交友がはじまり、月映は7輯に達した。恩地は16歳の時に三兄を、19歳の時に妹と次兄を亡くしているが、24歳だった1915年に親友の田中の死を経験し、生の苦悩や歓喜を表現した作品を多数生みだした。1915年には日本の近代絵画最初期の抽象作品と言われる『抒情』シリーズを発表し、1916年には2年の婚約期間を経て結婚。1917年には萩原の第一詩集『月に吠える』の装幀を担当した。1918年には山本鼎、織田一磨らの日本創作版画協会発起に協力し、1919年1月の展覧会開催に尽力した。1920年には初子となる恩地邦郎が誕生し、翌1921年には第2子が誕生。この時期には具象的な油彩作品も製作された。
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