恩地孝四郎とは? わかりやすく解説

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おんち‐こうしろう〔‐カウシラウ〕【恩地孝四郎】

読み方:おんちこうしろう

[1891〜1955]版画家東京生まれ。詩と版画同人誌「月映(つくはえ)」を刊行し木版画による抽象作品分野開拓


恩地孝四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/05 09:42 UTC 版)

恩地 孝四郎
恩地孝四郎(1952年)
生誕 (1891-07-02) 1891年7月2日
日本 東京府南豊島郡淀橋町(現・東京都新宿区
死没 (1955-06-03) 1955年6月3日(63歳没)
日本 東京都杉並区東荻町
(現・同区荻窪4丁目
国籍 日本
出身校 東京美術学校(中退)
著名な実績 版画装幀写真
運動・動向 創作版画抽象絵画
子供 恩地三保子(児童文学翻訳家)
選出 日本版画協会

恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年明治24年)7月2日[1] - 1955年昭和30年)6月3日[2])は、東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家装幀家写真家詩人。長女は児童文学翻訳家の恩地三保子

創作版画の先駆者のひとりであり、日本抽象絵画の創始者とされている[3]。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は高く評価されている[3]

作風

木版画装幀、写真など様々な分野で活躍した。版画においては、抽象絵画の創始者であるワシリー・カンディンスキーらの影響を受け、日本における最初期の抽象版画作品を制作している。大正期には具象・非具象問わず数々の版画の名作を生みだしたが、第二次世界大戦後はもっぱら抽象版画に傾倒し、葉や紐、木片などを用いる手法(マルチブロック)も編み出した。1955年に死去する直前まで創作活動を続け、日本における抽象画の先駆者として前衛性が高く評価されている。

装幀家としての活動は版画家としての活動よりも早い。収入を得る手段として装幀の道を歩み始め、竹久夢二北原白秋に評価されて、大正期末から昭和初期にかけて地位を確立した。戦後は新しい版画技術を導入して新たな道を切り開き、1955年までの45年間に、児童書・学術書・写真集・百科事典など幅広い分野で600点の装幀を手掛けている。

写真においてはアマチュアであったが、前衛的な表現手法を好んで用い、フォトグラムフォトモンタージュの作品、ロシア構成主義的な作品集『飛行官能』(1934年)、新即物主義的な植物の写真を多く掲載した作品集『博物誌』(1942年)などを発表している。後者の2つの作品集については、自身の詩や版画との組み合わせで、独自の世界を形作っている。

経歴

芸術家としての歩み

父の恩地 てつ東京地方裁判所検事で、のち宮内省式部職となる。母は京都出身で轍の2番目の妻である。1891年7月2日、孝四郎は恩地家の第5子4男として、東京府南豊島郡淀橋町に生まれた[1]。1904年に東京市立番町尋常小学校を卒業した後、父親の希望した医者になるべく獨逸学協会学校中等部に進学したが、卒業後の1909年には第一高等学校入試に失敗し、その翌年の1910年には父親に背いて東京美術学校予備科西洋画科志願に入学。同時期には白馬会原町洋画研究所に通い始め、池内三郎、田中恭吉藤森静雄などと出会った。1911年には東京美術学校予備科彫刻科塑像部志望に入学し、6月には竹久夢二らとともに『都會スケッチ』を刊行。7月には現在確認できる恩地の初めての装幀本である西川光二郎の『悪人研究』が刊行され、さらには竹久の主宰雑誌『櫻さく國 白風の巻』に絵と詩を発表した。1912年には東京美術学校予備科西洋画科志望に再入学し、『少年界』『密室』などに油彩画やペン画など様々な作品を発表した。

版画家としての出発

1914年1月には恩地家に寄宿していた女子美術学校の学生と婚約。同年3月、日比谷美術館で開催された木版画展でワシリー・カンディンスキードイツ表現主義作家の抽象版画に深く共鳴し、この頃に版画の創作を始めたと思われる。なお、東京美術学校を中途退学している。春から夏にかけて田中・藤森とともに同人誌『月映(つくはえ)』(私輯)を6輯まで発行し、9月には洛陽堂から自画自刻の木版画と詩歌の雑誌『月映(つくはえ)』(公輯)が刊行。この頃から北原白秋室生犀星萩原朔太郎との交友がはじまり、月映は7輯に達した。恩地は16歳の時に三兄を、19歳の時に妹と次兄を亡くしているが、24歳だった1915年に親友の田中の死を経験し、生の苦悩や歓喜を表現した作品を多数生みだした。1915年には日本の近代絵画最初期の抽象作品と言われる『抒情』シリーズを発表し、1916年には2年の婚約期間を経て小林のぶと結婚。1917年には長女の恩地 三保子 みおこが誕生[1][4]。萩原の第一詩集『月に吠える』の装幀を担当した。1918年には山本鼎織田一磨らの日本創作版画協会発起に協力し、1919年1月の展覧会開催に尽力した。1920年には長男の恩地 邦郎 くにおが誕生し、翌1921年には次男の恩地 昌郎 まさおが誕生、1924年には次女の恩地 暁子 さとこが誕生した[5][4]。この時期には具象的な油彩作品も製作された。

多様な展開

1927年には帝国美術院展(帝展、現在の日展)が版画の受理を初めて認め、同年に『幼女浴後』が初入選を果たした。1929年には平塚運一川上澄生、藤森とともに創作版画倶楽部を設立し、『新東京百景創作版画』の頒布が開始されている。なお、1928年に父の恩地轍が没している[6]。1930年に詩と版画誌『線』を沢田伊四郎などと創刊。1931年に中野区囲より杉並区東荻町に転居。同年には日本創作版画協会や洋風版画協会の面々が結集して日本版画協会が結成され、恩地はその常任委員に就任しているほか、1936年には国画会版画部の会員に推挙された。1939年には関野凖一郎山口源とともに版画の研究会である「一木会」を開き、守洞春、若山八十氏などの後進の指導にあたった。この間、1933年に母の 頼子 らいこが没している[6][4]。また、1939年に陸軍省嘱託として中支方面に従軍し、後に従軍の印象をまとめた個展を伊勢丹で開いた[7]

海外で開催された日本の版画展に目を向けると、1934年にはパリの装飾芸術美術館(Musée des Arts Décoratifs)で開催された「日本現代版画とその源流展」に7点を出品し、1936年にはジュネーブ市博物館で開催された「日本の古版画と日本現代版画展」に10点を出品している。また、同年7月にはサンフランシスコ市立デ・ヤング記念美術館(M. H. de Young Memorial Museum)で行われた「日本現代版画展」に複数作品を出品し、翌年までに恩地の作品はロサンゼルス、シカゴ、フィラデルフィア、ニューヨーク、ロンドン、リヨン、ワルシャワ、ベルリンを巡回した。

抽象に傾倒した戦後

戦時中も製作の手を休めなかったが(なお、1945年に次男の昌郎が戦死している[8])、戦後は抽象版画に傾倒し、『イマージュ』『アレゴリー』『フォルム』などのシリーズが同時進行的に製作された。これらの抽象作品は日本人より先に、日本に駐留するアメリカ人に評価され、多数の作品がアメリカに持ち帰られた。1953年6月には国際版画協会が創立され、恩地は初代理事長に選ばれた。同じ頃には岡本太郎村井正誠、植村鷹千代とともに国際アートクラブ日本支部を発足させている。1955年4月に心身の不調を訴え、東京大学医学部附属病院に入院するが、5月に退院して自宅療養を続けた[2]。6月3日に病状が急変して杉並区の自宅で死去し、品川区上大崎高福院に葬られた[9]。63歳没[2]。法名は勝徳院真誉孝淳居士。

交友関係

恩地が装幀家としての名声を高めるのに貢献した北原白秋のほかに、数々の著名人と交友関係があった。室生犀星はモダンアートに批判的な意見を持っていたが、新聞連載小説の挿絵担当に恩地を5度(15年間)も指名し、交友関係は長く続いた。恩地は1943年に『「氷島」の著者(萩原朔太郎像)』を製作しているが、室生も「午後」(『第二愛の詩集』所収)で恩地夫妻について触れている。

代表作

いずれも版画
『「氷島」の著者(萩原朔太郎像)』(1943年)
  • 『抒情』シリーズ(1914年-1915年)
公刊『月映』に掲載され、目や手などのモチーフを使って感情を象徴的に表現した。
  • 『リリック』シリーズ(1932年-)
『抒情』の延長線上にあるとされ、恩地版画のライト・モチーフとして戦後も継続された。
  • 『ポエム』シリーズ(1937年-)
動物や植物、季節の自然をモチーフにした連作であり、戦後も継続された。
  • 『「氷島」の著者(萩原朔太郎像)』(1943年)
二十年来の友人である萩原朔太郎が亡くなった翌年に作成された。
  • 『あるヴァイオリニストの肖像』(1946年)
占領軍基地内で行われた諏訪根自子の悲愴感あふれるリサイタルをモチーフにした。
  • 『フォルム』シリーズ(1948年-)、『コンポジション』シリーズ(1949年-)
形態と色彩を追求した。
  • 『オブジェ』シリーズ(1954年-)
紐・布・板切れ・針金・段ボール・落ち葉などを用いたマルチブロックと呼ばれる手法を利用した。

著作

編著

脚注

  1. ^ a b c 恩地 1975, p. 318, 年譜.
  2. ^ a b c 恩地 1975, p. 322, 年譜.
  3. ^ a b 横浜美術館『恩地孝四郎 - 色と形の詩人』13頁
  4. ^ a b c 恩地 1975, p. 323, Brief History.
  5. ^ 恩地 1975, pp. 318–319, 年譜.
  6. ^ a b 恩地 1975, p. 319, 年譜.
  7. ^ 恩地 1975, p. 320, 年譜.
  8. ^ 恩地 1975, p. 321, 年譜.
  9. ^ 恩地孝四郎”. 日本美術年鑑所載物故者記事. 独立行政法人 国立文化財機構 東京文化財研究所. 2024年5月13日閲覧。

参考文献

  • 『恩地孝四郎版画集』形象社、1975年。NDLJP:12868322/332 
  • 『恩地孝四郎詩集』 六興出版、1977年
  • 東京国立近代美術館『恩地孝四郎と「月映」』 東京国立近代美術館、1976年
  • リッカー美術館『一木会展 - 恩地孝四郎とその周辺』 リッカー美術館、1976年
  • 和歌山県立近代美術館『恩地孝四郎・田中恭吉・逸見享版画展』 和歌山県立近代美術館、1981年
  • 渋谷区立松濤美術館『恩地孝四郎 - 特別展』 渋谷区立松濤美術館、1982年
  • 恩地邦郎編『恩地孝四郎 装本の業』 三省堂、1982年、新装普及版2010年
  • 田中清光『月映の画家たち - 田中恭吉・恩地孝四郎の青春』 筑摩書房、1990年
  • 恩地邦郎編『装本の使命 - 恩地孝四郎 装幀美術論集』 阿部出版、1992年
  • 恩地邦郎編『抽象の表情 - 恩地孝四郎 版画芸術論集』 阿部出版、1992年
  • 横浜美術館『恩地孝四郎 - 色と形の詩人』 読売新聞社、1994年
  • 東京国立近代美術館『モダニズムの光跡 - 恩地孝四郎・椎原治・瑛九』 東京国立近代美術館、1997年
  • 山梨県立美術館『近代から現代へ - 木版画の革新』 山梨県立美術館、2005年
  • 大川美術館『ポエジーと抒情 : 恩地孝四郎をめぐる人々』 大川美術館、2005年
  • 室生犀星記念館『装幀の美:恩地孝四郎と犀星の響宴』 室生犀星記念館、2009年
  • 桑原規子『恩地孝四郎研究:版画のモダニズム』せりか書房、2012年
  • 池内紀『恩地孝四郎:一つの伝記』幻戯書房、2012年
  • 『『月映』展 - 田中恭吉・藤森静雄・恩地孝四郎』和歌山県立近代美術館ほか、2014年

関連項目

外部リンク




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