芸術家としての歩み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 04:07 UTC 版)
父の恩地轍は東京地方裁判所検事で、のち宮内省式部職となる。母は京都出身で轍の2番目の妻である。1891年7月2日、孝四郎は恩地家の第5子4男として、東京府南豊島郡淀橋町に生まれた。東京市立番町尋常小学校を卒業した後、父親の希望した医者になるべく獨逸学協会学校中等部に進学したが、卒業後の1909年には第一高等学校入試に失敗し、その翌年の1910年には父親に背いて東京美術学校予備科西洋画科志願に入学。同時期には白馬会原町洋画研究所に通い始め、池内三郎、田中恭吉、藤森静雄などと出会った。1911年には東京美術学校予備科彫刻科塑像部志望に入学し、6月には竹久夢二らとともに『都會スケッチ』を刊行。7月には現在確認できる恩地の初めての装幀本である西川光二郎の『悪人研究』が刊行され、さらには竹久の主宰雑誌『櫻さく國 白風の巻』に絵と詩を発表した。1912年には東京美術学校予備科西洋画科志望に再入学し、『少年界』『密室』などに油彩画やペン画など様々な作品を発表した。
※この「芸術家としての歩み」の解説は、「恩地孝四郎」の解説の一部です。
「芸術家としての歩み」を含む「恩地孝四郎」の記事については、「恩地孝四郎」の概要を参照ください。
- 芸術家としての歩みのページへのリンク