芸術家および恋愛の主題
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「夜長姫と耳男」の記事における「芸術家および恋愛の主題」の解説
『夜長姫と耳男』研究史には、この作品を安吾の評論『文学のふるさと』(1941年)と結びつけたうえで、「芸術家の覚悟」の主題を見るという一連の流れがある。『文学のふるさと』では、ペロー版『赤ずきん』(赤ずきんが狼に食べられたままで終わってしまう)ような救いのない結末の物語について考察され、その「救ひ」のない「突き放された」読後の「ぷつんとちよん切られた空しい余白」に、「文学のふるさと」を見出すという文学論で、そこで安吾が主張する「モラルがない、といふこと自体が、モラルなのだ」という「生存それ自体が孕んでゐる絶対の孤独」の文学観は、しばしば『堕落論』『桜の森の満開の下』など他の文学作品とも通底するテーマとして結び付けられて論じられることが多く、「文学のふるさと」は安吾文学を解く重要なキーワードである。 『夜長姫と耳男』も例外ではなく、例えば由良君美は、江奈古による耳男の耳の切除を「象徴的去勢」、彼女の自殺を、彼女に転位された耳男の母体回帰願望の超克とするなどの精神分析的解釈を施しながら、耳男の仕事の過程を「芸術による自己超越」に向かう道と読み解き、また耳男が姫を刺す直前に見る〈キレイな青空〉の底知れぬ青さを、その自己超越の営みが目指すものと位置づけたうえで、この空が安吾の言う「文学のふるさと」と同義であるとしている。高桑法子は、安吾の「ふるさと」が「母性によって満たされる世界から自己を突き放し、人間関係を剥奪したところに始まる」ものとし、姫を刺し殺すまでの過程を「酷薄なる虚空の美を獲得してゆく男の過程」であるとした。 こうした芸術家の主題の他(あるいはそれと併せて)、安吾の女性観、恋愛観の反映や恋愛の主題を見る向きもある。奥野健男は、〈好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ〉という姫の最期の言葉を「安吾の芸術観であり、恋愛観でもあろう」とし、この言葉をもって安吾は、過去に恋愛関係にあった矢田津世子へのイメージと愛を「完璧に芸術化」し得たのだとしている。角田旅人は、耳男の江奈古への態度に秘められた愛情を見て取り、本作を江奈古と夜長姫という「二人の女人に、互いに許すことのできない愛を(自分ではついに気づくことのないままに)抱いた男の悲劇」と読み解いている。『夜長姫と耳男』に恋愛観と芸術観という二つの流れを見る石川正人は、「姫の笑顔」に押し流されまいとして化け物の像を彫る耳男に「芸術という力を借りて、恋愛という得体の知れないものを克服しようとする男の姿」を見て取る。そして「好きな物は咒うか殺すか争うかしなければならない」という姫の最期の言葉を受け取れば、耳男は姫を殺したと同時に、恋愛という目的を達成したことになるとしている。
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