抽象に傾倒した戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 04:07 UTC 版)
戦時中も製作の手を休めなかったが、戦後は抽象版画に傾倒し、『イマージュ』『アレゴリー』『フォルム』などのシリーズが同時進行的に製作された。これらの抽象作品は日本人より先に、日本に駐留するアメリカ人に評価され、多数の作品がアメリカに持ち帰られた。1953年6月には国際版画協会が創立され、恩地は初代理事長に選ばれた。同じ頃には岡本太郎や村井正誠、植村鷹千代とともに国際アートクラブ日本支部を発足させている。1955年4月頃に心身の不調を訴え、東京大学医学部附属病院に入院するが、5月に退院して自宅療養を続けた。6月3日に死去し、品川区上大崎の高福院に葬られた。享年64。法名は勝徳院真誉孝淳居士。
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