プラーゲ旋風
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プラーゲ旋風(プラーゲせんぷう)は、外国音楽著作権団体の代理人として外国人音楽著作物を管理していたウィルヘルム・プラーゲ(W. Plage)によってひきおこされた様々な著作権紛争事件[1]。
- 1 プラーゲ旋風とは
- 2 プラーゲ旋風の概要
- 3 参考文献
プラーゲ旋風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 05:04 UTC 版)
日本は1899年にベルヌ条約に加盟して著作権法も施行されていたが、生演奏の他に録音媒体も再生ごとに使用料を支払う概念は皆無であった。1931年に旧制一高のドイツ人教師であったウィルヘルム・プラーゲが主にヨーロッパの著作権管理団体より日本での代理権を取得したと主張して東京に著作権管理団体「プラーゲ機関」を設立し、放送局やオーケストラなど楽曲を使用するすべての事業者に楽曲使用料の請求を始めた。 プラーゲの要求する使用料は当時法外で手法が法的手段を含む強硬であることから、日本国外の楽曲使用が事実上困難になった。日本放送協会(NHK)もプラーゲ機関との契約交渉が不調で1年以上海外の楽曲を放送できなくなった。プラーゲは日本の音楽作家に対しても著作権管理の代行を働きかけ始めた。プラーゲの目的は金銭ではなく著作権の適正運用だったとも言われているが、楽曲利用者との溝は埋めることができずに日本人作家の代理権取得は更なる反発を招いた。一連は「プラーゲ旋風」と呼ばれ日本における著作権集中管理のきっかけとなった。
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