日本楽器争議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 00:26 UTC 版)
1926年4月に大規模な労働争議が発生する。浜松合同労働組合に属する同社従業員は、解雇手当・残業手当制度など待遇改善の要求を拒否されてストに入った。社外の労働運動家が多く加わり105日間のストライキが実行され、会社役員宅が爆破されるなどの暴力的な騒動となる。会社側は警察や右翼団体を使ってこれに対抗し、解雇者350名を出して8月に結着した。争議の責任から翌1927年(昭和2年)に天野が辞任し、住友電線の取締役であった川上嘉市が3代目社長に就任した。1930年(昭和5年)に釧路工場を大日本人造肥料へ売却し負債を整理し、嘉市は住友財閥の支援も受け、経営の合理化と技術革新でヤマハの再建を果たしたと評されるが、のちに「非オーナーでありながら経営者を世襲」して川上親子が経営を続ける。 経営の好転後、1935年(昭和10年)にヤマハ初の電気楽器「マグナオルガン」を製作し、1937年(昭和12年)に管楽器製造をする日本管楽器株式会社(ニッカン)の経営を援助し、嘉市が監査役となるなど実質的にグループ化して総合楽器製造企業へ成長しつつあった。 しかし時勢は戦時の雰囲気を強めつつあり、1938年(昭和13年)に陸軍管理下の軍需工場となり、金属プロペラおよび木製プロペラ(小型練習機用)の生産を行い大工場になる。太平洋戦争中には一式戦闘機「隼」や一〇〇式司令部偵察機など、多くの陸軍機のプロペラを生産した。1944年(昭和19年)11月に楽器類の生産は完全休止し、1945年7月にイギリスの戦艦キング・ジョージ5世の艦砲射撃で浜松の工場が全壊するなどの被害を受け(浜松空襲)、終戦を迎えた。
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