政治と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/16 10:18 UTC 版)
「ウィリアム・ヘイデン・イングリッシュ」の記事における「政治と結婚」の解説
ポークが1845年に大統領に就任した後、その報償としてイングリッシュをワシントンD.C.の財務省事務官に指名した。イングリッシュはこの職を4年間務め、その間にエマ・マードゥリア・ジャクソンと出逢った。二人は1847年11月に結婚した。この夫妻にはウィリアム・イースティンとロザリンドの2人の子供ができた。 イングリッシュはボルチモアで開催された1848年民主党全国大会に出席し、この時はルイス・カスを支持して、最終的に大統領候補に選んだ。この年の大統領選挙では、ホイッグ党候補のザカリー・テイラーが当選し、ホイッグ党員がイングリッシュに代わって財務省の職に就いた。イングリッシュは党のコネを通じてアメリカ合衆国上院の請願委員会の事務官に就任し、ワシントンD.C.で1850年まで務めた 。 その年後半イングリッシュと妻はインディアナ州に戻り、インディアナ州憲法制定会議の事務官として働いた。この会議では民主党が多数派であり、その提案には選挙で選ばれる役人の数を増やすこと、家産差し押さえ免除を保証すること、選挙権を白人に制限することなど新法が含まれていた。それまでに自由黒人が州内での選挙権を得ていた。この新しい1851年憲法は有権者の大多数の賛成によって承認された。 1851年8月、イングリッシュはインディアナ州会議員に初めて立候補して当選した。1851年憲法が制定されてから初の議会であり、憲法に関する知識があったので当選にも有利であり、29歳で下院議長にまでなった。下院は民主党が多数であり、ブライトの指示に従って、ブライト派の1人であるグラハム・N・フィッチのアメリカ合衆国上院議員選挙を手伝った。しかし、議会は別の民主党員であるジョン・ペティットを選んだ。イングリッシュは下院議長の職を続けることで州内の影響力を増した。1852年、民主党は新しく選挙区割りが行われた第2区から選ぶアメリカ合衆国下院議員の候補にイングリッシュを指名した。その年10月の選挙では民主党が大勝し、下院議席は1議席を除いて独占した。イングリッシュはホイッグ党の対立候補を得票率で55%対45%という差で破って当選し、1853年にワシントンD.C.で招集された第33期議会に参加した。
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