海上戦闘
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詳細は「海戦」を参照 海戦は水域において海上戦力が戦術的に衝突した戦闘をいう。気象、水路、海洋短波、潮汐などに影響され、また補給・整備の関係から持久戦を実施することができず、決戦となり、またその結果も完全な勝利か殲滅的敗北のどちらかになる傾向が強い。特徴として水域における戦闘であるために陸上戦力のように地形を戦力化することが殆どできず、兵器の性能が戦闘の勝敗を直接的に決める。そのため海戦はランチェスターの法則が殆どそのまま適用される。分類には以下のようなものが代表的に挙げられるが、さらに特殊作戦、監視・哨戒、情報戦、指揮統制、電子戦、補給などが関わる。 水上打撃戦 - 水上艦艇を以って敵の水上艦艇、地上戦力、陸地の施設などに対して砲やミサイルなどで攻撃する戦闘。 空母航空打撃戦 - 航空母艦の航空隊を用いて敵艦隊に対して航空攻撃を行う戦闘。 対空戦闘 - 敵の航空戦力に対して航空攻撃を妨害するために対空ミサイルや機関砲などで攻撃を行う戦闘。 対潜戦闘 - 潜水艦に対する対潜艦艇、航空機による戦闘をいう。その要領として、聴音ソナー、アクティブソナーなどを用いて捜索、探知して対潜魚雷、対潜ミサイルで攻撃を行う。また潜水艦の攻撃に迅速に対応するために精度を犠牲にして行う攻撃を行う場合もある。 機雷戦 - 戦略的、作戦的、戦術的な機雷の敷設と掃海。
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海上戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 05:06 UTC 版)
海上においては、ギリシャ艦隊は開戦初日から積極的な作戦行動をとった。1912年10月6日から10月20日の間に、エーゲ海の東部と北部に浮かぶほとんどの島々を、ギリシャ海軍と陸軍の分遣隊が占領した。そして、リムノス島のマウドロス湾に前進基地を設営し、ダーダネルス海峡を制圧下に置いた。11月8日には、ニコラオス・ヴォツィス (en)海軍大尉を艇長とするギリシャ水雷艇11号が、サロニカ港に夜陰に紛れて潜入、オスマン装甲艦「フェトヒ・ビュレント」を撃沈する戦果をあげて、大いにギリシャ海軍の士気を高めた。 一方、オスマン帝国海軍は、当初はダーダネルス海峡の内側に引きこもっていたが、陸上の戦況が悪化すると、増援部隊を緊急輸送するためにエーゲ海への侵入を試みた。その結果、1912年12月16日(ユリウス暦12月3日)にヘレス岬沖海戦 (en:Battle of Elli) が起きたが、ギリシャ側提督のパヴロス・クンドゥリオティス (en) 少将の卓越した戦術指揮と、ギリシャ艦隊旗艦「イェロギオフ・アヴェロフ」の高速性能の前に、オスマン帝国艦隊は敗れ去った。 ギリシャ艦隊による封鎖を突破するための次の策として、オスマン帝国海軍は、防護巡洋艦「ハミディイェ」をエーゲ海に潜入させて、通商破壊を行わせることを考えた。ギリシャ側で「ハミディイェ」に対抗可能な大型高速艦は「アヴェロフ」しかないため、「アヴェロフ」を釣りだして封鎖艦隊に隙を作ることができると期待したのである。出撃した「ハミディイェ」はギリシャ側の警戒線をすりぬけて、ギリシャの小港シロス(en)を砲撃、碇泊中の商船1隻を撃沈した。その後、エーゲ海から地中海東部へと進出するべく航行を続けた「ハミディイェ」だったが、ギリシャの小艦艇に追われて紅海へと逃げ込んだ。ところがオスマン側の期待した「ハミディイェ」追撃命令は、ギリシャのクンドゥリオティス少将には下ったものの、彼はこの命令を拒絶してしまった。そのため、4日後の1913年1月18日(ユリウス暦1月5日)にオスマン主力艦隊は再びエーゲ海への侵入を試みたが、リムノス島沖海戦 (en:Battle of Lemnos (1913))で「アヴェロフ」以下のギリシャ艦隊に阻止されてしまったのだった。リムノス島沖海戦での敗北を最後に、オスマン帝国海軍はダーダネルス海峡突破を断念し、ギリシャのエーゲ海での制海権が確立された。後に、ブルガリア第2軍司令官イワノフ将軍は、ギリシャ海軍がバルカン同盟の勝利に関して果たした役割について、「全ギリシャ艦隊の活動は、同盟軍の勝利の最も重要な要素であった」と指摘している。
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