フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク
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フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク(ドイツ語: Friedrich-Alexander Universität Erlangen-Nürnberg, FAU)は、ドイツ・バイエルン州のエアランゲンおよびニュルンベルクにある大学である。
バイエルン州第2の規模を持ち、11の学部、265の講座を有する。学部はそのうち9学部がエアランゲンに、2学部がニュルンベルクにある。学生数は、2004/05年の冬学期の登録者で24,600名。そのうち、3分の2がエアランゲン、残りがニュルンベルクで学んでいる。海外からの留学生は、およそ2,500名程度になる。教職員は、総数で10,000名以上に及び、バイエルン州では第2位の規模を誇る。加えて、近在の専門の単科大学や各大学とも緊密な連携を持ち、バイエルン州北部では突出した地位を保持している。
2010年に大韓民国の釜山広域市に分校が設立され、2011年から毎年およそ50人の学生を受け入れている。[1]
歴史
1742年にブランデンブルク=バイロイト辺境伯フリードリヒによってバイロイトに設立され、1743年にエアランゲンに移動した。創立時はプロテスタントの大学であったが、次第に世俗化した。
1961年に、ニュルンベルクの1919年設立の経済社会科学単科大学が併合され、大学名にエアランゲン=ニュルンベルクが付加された。1966年に工学部が設立され、1972年にニュルンベルク教育大学も併合された。2004年に、フュルトにおける新物資・生産過程技術中央研究所 (Zentralinstitut für Neue Materialien und Prozesstechnik,ZMP) の創立が決定され、そのため、フュルトが大学都市になった。
他の大学出張所は、バンベルクにおけるレマイス天文台及びラインフェルドにおけるブロムバッハ湖の水上競技センターである。
学部
FAUは、次の学部を有する(創設順):
- 神学部
- 法学部
- 医学部
- 哲学部 I(哲学,、史学、社会科学)
- 哲学部 II(言語学、文学)
- 自然科学部 I (数学、物理学)
- 自然科学部 II(生物学、化学、薬学)
- 自然科学部 III(地理学、地質学)
- 経済社会科学部
- 工学部
- 教育学部
設備
大学の他の設備:
- 付属病院
- 付属図書館
- エアランゲン地方情報処理エアランゲン
- 語学センター
- スポーツセンター
- 大学生活協同組合 (Studentenwerk)
- コレギウム・アレクサンドリヌム - 大学の内外に向けた公開講義などのある講堂
関係者
教員など
- ユルゲン・ロロフ - 新約聖書学者
有名な卒業生
- ヨハン・クリスチャン・ホフマン - ルター派の神学者
- ヘルムート・プレスナー: 哲学的人間学の提唱者のひとり
- ルートヴィヒ・エアハルト 西ドイツ首相
- ハインリヒ・フォン・ピーラー シーメンス社の元社長
- ヘルムト・ハウスマン 西ドイツ元経済大臣
お城の庭園祭
大学は、1951年から毎年、6月/7月にいわゆるお城の庭園祭 (Schlossgartenfest) と呼ばれる祝祭を催している。この祭りは、バイエルン州の大学の年間行事の中ではその一番の頂点とされている。およそ6,000人の参加者があり、ヨーロッパの庭園祭の中でも最大規模のもののひとつである。
エアランゲンの中心部にある城の庭園が、野外での大規模な舞踏会の準備に充てられる。各所にダンスの場所が設けられる他に、松明が点され音楽の演奏、テーブルや客席がしつらえられて、飲食の場所もある。催しの開幕は、大規模な花火で始まり、翌日の日曜日にはいわゆる市民の朝の会食がある。催しの間、大学の学生や教授たちと並んでバイエルン州の経済界、政界の著名人たちも訪れる。第一回のお城の庭園祭は、ルドルフ・ポーレ学長の下で開かれた。1969年には学生の騒乱のため、1966年、1980年、そして2000年は天候不良のために開催が見送られている。
脚注
関連項目
外部リンク
エルランゲン大学
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「エミー・ネーター」の記事における「エルランゲン大学」の解説
ネーターはフランス語と英語にすぐに習熟した。1900年の春にこれらの言語の教師のための試験を受け、すべてのスコアが sehr gut(非常に良い)だった。彼女の成績は彼女に女子学校で言語を教える資格を与えたが、彼女は代わりにエルランゲン大学で勉強を続けることを選んだ。 これは型破りな決断であった。その2年前、大学の Academic Senate は男女共学を許すと "overthrow all academic order" と宣言したのだった。986の大学の2人しかいない女子学生の1人であったネーターは、講義に完全には参加できず、聴講(英語版)が許されただけで、彼女が出席したい講義の個々の教授の許可が必要だった。これらの障害にもかかわらず、1903年7月14日、彼女はニュルンベルクの Realgymnasium(英語版) の卒業試験に受かった。 1903年から04年の冬学期の間、彼女はゲッチンゲン大学で勉強し、天文学者カール・シュヴァルツシルト (Karl Schwarzschild) や数学者ヘルマン・ミンコフスキー (Hermann Minkowski)、オットー・ブルメンタル(英語版) (Otto Blumenthal)、フェリックス・クライン (Felix Klein)、ダヴィット・ヒルベルト (David Hilbert) による講義に出席した。その後すぐその大学での女性の参加の制限が廃止された。 ネーターはエルランゲンに戻った。彼女は正式に1904年10月24日に大学に再び入学し、数学を専門的に学ぶ意向を宣言した。パウル・ゴルダン(英語版) (Paul Gordan) の指導の下、彼女は論文 Über die Bildung des Formensystems der ternären biquadratischen Form(三項四次形式の不変式の完全系に関して、1907)を書いた。評判は高かったが、ネーターは後にその論文を "crap" と評している。 次の7年間 (1908–15) 彼女は University of Erlangen's Mathematical Institute で無給で、ときには父の体調が悪く講義できないときに代わりとして、教えた。1910年と1911年に彼女は 3 変数から n 変数への彼女の学位論文の仕事の拡張を出版した。 ゴルダンは1910年の春に退職したがときどき彼の後任のエルハルト・シュミット (Erhard Schmidt) と教えることを続けた。シュミットはその後まもなくヴロツワフでの職のために去った。ゴルダンはシュミットの後任エルンスト・フィッシャー(英語版) (Ernst Fischer) が着任した1911年に教えることから完全に離れた。そして1912年12月に亡くなった。 ヘルマン・ヴァイル (Hermann Weyl) によると、フィッシャーはネーターに重大な影響を、特にダフィット・ヒルベルト (David Hilbert) の仕事を紹介したことで、与えた。1913年から16年にかけてネーターはヒルベルトの手法を有理関数体や有限群の不変式(英語版)のような数学的対象に拡張し適用するいくつかの論文を出版した。この時期は、抽象代数学、彼女が鍬入れ的貢献をすることになる数学の分野、に彼女が従事する始まりである。 ネーターとフィッシャーは数学の生き生きとした楽しみを共有し、仕事が終わったずっと後にしばしば講義について議論した。ネーターはフィッシャーにポストカードを送り彼女の数学的思考の訓練を続けたことで知られている。
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