歌手としてのキャリア
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「バーブラ・ストライサンド」の記事における「歌手としてのキャリア」の解説
バーブラ・ストライサンドは60作以上のアルバムを録音しているが、その殆どがコロムビア・レコード・レーベルから発売されたものである。1960年代に発表された初期の作品は、アイロニックで見事な「幸せの日は再び」をはじめとする劇場やナイトクラブで歌われるスタンダード曲を主とした古典的な表現に徹した作品だと考えられている。 1969年からは作曲家としても活動をはじめ、ロックへの路線変更を試みて試行錯誤する。最終的にリチャード・ペリーがプロデュースした1971年の『ストーニー・エンド』の成功によって、ポップやバラード志向に定着した。ローラ・ニーロが作曲したこのアルバムの表題作は大きなヒット曲になった。1970年代のあいだ、ストライサンドは「追憶」「スター誕生/愛のテーマ」「ノー・モア・ティアーズ」や「ウーマン・イン・ラヴ」など、主に彼女の映画のサウンドトラックに使用された楽曲でチャートの首位に輝き、ポップチャート上でも際立った存在だった。 1970年代の終わりには、米国で最も成功した女性歌手として認識された。彼女のアルバムのセールスは凄まじく、当時彼女より多くのアルバムを売り上げていたのはエルヴィス・プレスリーとビートルズだけであった。 1982年に、音楽評論家のスティーヴン・ホールデンは彼女を「フランク・シナトラ以来最も影響力のある米国ポップ歌手」と評している。 1980年、ビー・ジーズのバリー・ギブによるプロデュース作「ギルティ」を発売、彼女自身最大のヒットアルバムとなった。グラミー賞も受賞した。 1985年のアルバム『追憶のブロードウェイ』で、ストライサンドは彼女の原点であるミュージカル的な作風に回帰する。このアルバムはビルボードの首位を3週連続キープして3xプラチナとして認証され、思いがけない成功をもたらした。レコーディングのためにスティーヴン・ソンドハイムによって特別に作り直されたミュージカル・ナンバーを収めたこのアルバムは高い評価を受け、グラミー賞で「アルバム・オブ・ザ・イヤー」にノミネートされた。ストライサンド自身も最優秀女性歌手部門において、彼女にとって8度目の同賞を受賞している。 1991年には、『ジャスト・フォー・ザ・レコード』と題された4枚組のCDボックスセットが発売された。このアルバムにはライブ音源やヒット曲、それに初期から1991年までに録音されたレア音源など、70曲以上が収録されている。 1992年ごろは、音楽的成功はストライサンドにとって関心ごとではなかった。ビル・クリントンとの関係から、ニューヨーク・タイムズは彼女を再び「最も有力なエンターテイナー」であると宣言した。ストライサンドが行った資金集めのコンサートは、クリントンをスポットライトに送り込む手助けをした。クリントンがアメリカ合衆国の大統領に就任した際には、ストライサンドが彼を紹介している。 しかしながら、政治活動のためにストライサンドの音楽的キャリアは中断していた。そこで、ツアーが提案され、彼女はそのために2年もの歳月にわたって話し合いを行った。そして、それから1年後の1993年にショー・チューンを集めたアルバム『バック・トゥ・ブロードウェイ』で再び全米チャートの1位を記録すると、同年の9月には27年ぶりのコンサート・ツアーを行うと発表した。この限られたツアーへのチケットは1時間未満で売り切れた。また、主要な雑誌の表紙も飾った彼女のツアーを、『タイム』誌は「世紀の音楽イベント」になると予測した。ツアーは全てのメディアにおいて、史上最も大規模な交渉を生む商品となった。チケットの値段は50ドルから1500ドルへと高騰し、ストライサンドを史上最も高価なパフォーマーにした。ザ・コンサートはその年アメリカ国内で最も高い収益を得たコンサートになり、2つのエミー賞とピーボディ賞を受賞した。HBOでオンエアされた録画放送は、HBOのこれまでの30年以上の歴史の中で最も高視聴率を記録したコンサート特番である。 1999年の大晦日、彼女はコンサートのステージに復帰する。“Timeless”と題された。そして、これまでのラスベガスの歴史における単独での歌手のコンサートとしては、最大級の収益をあげる記録をなしとげた。世紀末の時点で彼女は、デビュー以来各年代で最低2枚1位を記録したアルバムがある、アメリカ最高の女性シンガーであった。ラスベガスでのコンサートのあと、オーストラリア、ロサンゼルスそして、故郷であるニューヨークなどで公演を行うと、彼女は2000年にコンサート活動を停止する。 彼女の近年のアルバムには2001年の『クリスマス・メモリーズ』や、大規模なオーケストラの演奏をバックに有名映画の主題歌を歌ったものを集めた2003年の『ムーヴィー・アルバム』などがある。最新作はバリー・ギブとの共演による『ギルティ』の続編『ギルティ・プレジャーズ』(イギリスでは『ギルティ・トゥー』として発売された)で、2005年に世界発売された。 2006年2月、マリブの自宅でトニー・ベネットと共に「スマイル」を収録。10月4日にフィラデルフィアのワチョビアセンターで始まった6年ぶりのコンサート・ツアーは「ストライサンド:ザ・ツアー」とのみ呼ばれている。スペシャルゲストのイル・ディーヴォがオープニングを勤めた。 2006年10月9日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでコンサート。ジョージ・W・ブッシュ大統領を揶揄するスキットを披露した。スキットの後で野次を飛ばし続ける一人の観客に対し、ストライサンドは「黙れ」と怒鳴りつけ、後に陳謝したが、「秩序をかき乱すのも芸術家の役割」と付け加えた。 2006年10月30日、同じスキットで、一人のファンがストライサンドにカップを投げつけた。これに対し、マネージャーのマーティン・エーリッヒマンは「ここは自由の国であり自分の意見を述べる権利がある」と回答した。 2007年、13年ぶりのヨーロッパ・ツアーをロンドン、パリなどで行う。 2009年10月、4年ぶりのアルバム"Love Is The Answer"を発売。(同日発売のマライア・キャリーのアルバムを抑え)、Billboard 200チャートで初登場1位。 2014年9月、デュエット・アルバム『パートナーズ』を発表。Billboard 200チャートで初登場を首位で飾り、自身が持つ女性アーティスト最多記録を10作に更新。さらに、1960年代・1970年代・1980年代・1990年代・2000年代・2010年代の6つの年代で首位を獲得する前人未到の偉業を達成した。 多くのアーティストと同様、ストライサンドは自分の作品について議論することを好まないことで知られる。そして収録が終わるや否や、それは「終わったもの」として忘れてしまうことが多いのだという。彼女は、多くの彼女の歌は題名すら思い出せないと述べている。 一度も来日公演が行われていない大物アーティストの一人である。1977年3月に映画『スター誕生』のプロモーションで来日したが、公演は行わなかった。この時「なぜ来日公演を行わないのか?」という記者の質問に対し、「日本で歌う機会が無いのです。もしあれば歌いたいのだが・・・」と答えている。
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歌手としてのキャリア
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「ペニッラ・ヴァールグレーン」の記事における「歌手としてのキャリア」の解説
1985年、17歳でユーロビジョンヨーテボリ大会のスウェーデン予選(メロディーフェスティバーレン)で彼女の代表曲"Piccadilly Circus"で出場したが、ベテランのキッキ・ダニエルソンに大敗し29点の4位に終わった。 1991年、ローマ大会予選に再挑戦。このとき、スウェーデンの大物歌手、レーナ・フィーリップソンが作詞・作曲した"Tvillingsjäl"で挑んだが、スウェーデン音楽の女王キャローラに大敗し、パフォーマンスが悪く、一次予選で敗退した。 2003年、スウェーデン人の歌手ヤン・ヨハンセンとのデュエット、"Let Your Spirit Fly"で出場。ヤンは1995年に"Se på mig"でスウェーデン予選を突破し、ヨーロッパ決勝では100点で3位に入賞という輝かしい成績を持っている。しかし、スウェーデン決勝では審査投票で3位、国民投票で3位、総合順位2位という結果になった。1位は イェスィカ・アンデションとマグヌス・ベックルンドで結成されたフェイムの"Give Me Your Love"で、ペニッラ&ヤン組と62点差で優勝し、リガでの本大会では5位になった。
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