歌手としての成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 04:40 UTC 版)
「アデリーナ・パッティ」の記事における「歌手としての成長」の解説
パッティがオペラデビューを果たしたのは、彼女が16歳の1859年11月24日、ニューヨークの音楽アカデミーにおけるドニゼッティの「ランメルモールのルチア」のタイトルロールであった。1860年8月24日には、モントリオールでウェールズ公の臨席という名誉の下、エマ・アルバーニと共にシャルル・サバティエールのカンタータでソリストを務めている。18歳になった1861年には、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスに招かれ、ベッリーニの「夢遊病の女」のアミーナ役に抜擢された。このシーズンのロイヤル・オペラ・ハウスでの成功により、パッティはクラパム(英語版)に家を購入し、さらにロンドンを拠点に大陸へと進出、続く数年間にはパリやウィーンにおいてアミーナ役で同じような成功を収めることとなった。 1862年のアメリカツアーの途中、パッティはホワイトハウスにおいて当時の大統領リンカーンとその妻メアリーのためにジョン・ハワード・ペイン作詞の「埴生の宿」を歌った。リンカーン夫妻は同年11歳で腸チフスにより命を落とした息子のウィリアムへの悲しみに暮れており、感動で涙を流した2人はその歌のアンコールを頼んだ。このことがあってから「埴生の宿」はパッティの持ち歌のようになり、彼女は何度もリサイタルや演奏会の最後にこの曲をアンコールで歌うことになった。 パッティのキャリアは成功に継ぐ成功であった。彼女が歌って回ったのはイギリスやアメリカに留まらず、ヨーロッパの中心から遠くはロシア、南アメリカにまで至り、どこへ行っても聴衆は半狂乱となり批評家は最上級の賛辞を贈った。若い彼女の可愛らしい容姿はステージ栄えし、これも彼女の知名度に貢献した。 1860年代のパッティは甘美で鳥のさえずりのように清らかな高音、そして素晴らしい柔軟性を持ち合わせており、ツェルリーナ、ルチア、アミーナなどの役に理想的に合致していた。一方、ヴェルディが1878年に記したところによると、成長してからの彼女の声は低音も完璧で美しく、それによってより一層の興行的成功を勝ち得たという。しかしながら、パッティはオペラ、コンサートのキャリア終盤には保守的な歌手へと転じた。彼女は年月が経ち成熟した自分の声に何が一番適しているかを心得ており、そこにこだわったのである。それが典型的に見られたのが1890年代の彼女のリサイタルのプログラムである。その頃の彼女は技術的な難度の高すぎない、当時親しまれていた時に感傷的な大衆歌謡曲を取り上げており、それらは彼女を崇拝するファンに実に効果的に訴えかけたのである。 しかし円熟期で絶頂にあった1870年代、80年代のパッティはより積極性を持った歌い手であり、深い感情を集めて表出させることが求められるような、情感豊かな役柄によく合う女優であった。「リゴレット」のジルダ、「イル・トロヴァトーレ」のレオノーラ、「セミラーミデ」の主役、「ドン・ジョヴァンニ」のツェルリーナ、「椿姫」のヴィオレッタなどの役がそれにあたる。また彼女は非常に劇的なオペラ、「アフリカの女」や「ユグノー教徒」、「アイーダ」の役にすら挑める用意があった。しかしながら、彼女は1度もヴェリズモ・オペラで歌おうとはしなかった。それらは彼女のキャリアも終わろうとしていた、19世紀の最後の10年になってやっと人気が出てきたのである。 何年も前にパッティはパリで、イタリア歌唱の価値をゆるぎないものに高めたベルカント・オペラの作曲家ロッシーニとの愉快な出会いを経験していた。これは彼女の指導に当たっていたストラコシュが、1860年代に社交の場で彼女をロッシーニに紹介していたことに関係する。彼女はロッシーニの「セビリアの理髪師」の『ある声が今しがた』を、ソプラノの声がよりよく聞こえるようストラコシュが加えた装飾音付きで歌うことで知れ渡っていた。「それは誰の作品なのかね」とロッシーニが刺々しく質問した。ストラコシュは「どうされました、マエストロ。あなたの作品ですよ。」と答えた。ロッシーニはこう返した。「いや、これは私が作曲したものではない。ストラコッシュネリー(Strakoschonnerie)だ。」(Cochonnerieは強いフランス語の慣用句で「ゴミ」、そして「ブタにちょうどいい、もしくはブタそのものの」という意味となる。)
※この「歌手としての成長」の解説は、「アデリーナ・パッティ」の解説の一部です。
「歌手としての成長」を含む「アデリーナ・パッティ」の記事については、「アデリーナ・パッティ」の概要を参照ください。
- 歌手としての成長のページへのリンク