歌手としての経歴
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2007年7月 京都府立文化芸術会館にて弦楽四重奏と共演 2007年11月 ライブハウス都雅都雅にてワンマンライブ 2010年8月 円山公園野外音楽堂にて24時間TV出演 2010年9月 ABCテレビ「ストリートファイターズ関西」出演 2010年10月 住之江球場にて国歌斉唱 その他、様々なライブハウスやレストラン出演、イベント出演で、全200本以上のライブを行ってきた。
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歌手としての経歴
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「フェルッチョ・タリアヴィーニ」の記事における「歌手としての経歴」の解説
24歳のとき、パルマの歌のコンクールに参加し、奨学金を得てアッリーゴ・ボーイト音楽院(パルマ音楽院)に入学し、イターロ・ブランクッチ(英語版)の指導を受けた。1938年には全国ドーポラヴォーロ事業団主催の「Concorso Nazionale di Canto Lirico」(全国叙情歌コンクール)で優勝し、フィレンツェのコムナーレ劇場(フィレンツェ市立劇場)の専門コースに入所することができた。フィレンツェでの指揮者のマリオ・ラブロカの支援と助言、テノールのアメデオ・バッシの指導は彼にとって貴重なものとなった。1938年にフィレンツェ五月音楽祭のベルカント・コンクールで第1位を獲得し、同年10月27日にフィレンツェでジャコモ・プッチーニ『ラ・ボエーム』のロドルフォ役でデビューを飾り、大成功を収めた。同年にはマルティーニ&ロッシのコンサートでラジオデビューも果たしている。1942年1月29日にミラノ・スカラ座で、ジャンナ・ペデルツィーニ(英語版)、ジーノ・ベーキ、タンクレディ・パセロ(英語版)と共演したロッシーニ『セビリアの理髪師』で重要なデビューを果たした。1943年から1945年の間には、イタリア戦線においてアメリカとイギリスの連合軍のために数多くのコンサートで歌った。 1946年6月11日、ブエノスアイレスのテアトロ・コロンに、妻のピア・タシナーリを伴ってプッチーニ『トスカ』でデビューした。1947年1月10日にはプッチーニ『ラ・ボエーム』でニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビューし、1954年まで定期的に公演を行った。1950年9月13日には、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスで同オペラに出演し、1951年7月1日にはパリ・オペラ座にヴェルディ『仮面舞踏会』でデビューした。 1962年、7年ぶりにメトに戻り、ドニゼッティ『愛の妙薬』と『ラ・ボエーム』で最後の出演を果たした。1970年7月21日、ベネヴェントのローマ劇場での『愛の妙薬』を最後にオペラから引退した。1981年5月20日、ニューヨークのカーネギー・ホールにおけるマスカーニ『友人フリッツ』のコンサート形式の公演で演奏活動を締めくくった。
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歌手としての経歴
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「ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ」の記事における「歌手としての経歴」の解説
1947年にベルリン音楽院に戻り、バーデンヴァイラーでプロ歌手としての経歴がはじまる。彼はヨハネス・ブラームスの『ドイツ・レクイエム』の演奏会で、直前に病気になった歌手の代役としてリハーサルなしで歌った。1947年秋に最初の歌曲リサイタルをライプツィヒで開いたのに続き、ベルリンのティタニア・パラスト(元映画館)で行った最初の演奏会でも成功をおさめた。 フィッシャー=ディースカウの実質的なキャリアは、1948年1月、まだヘルマン・ヴァイセンボルンの学生だったとき、RIAS(Rundfunk Im Amerikanischen Sektor: アメリカ軍占領地区放送局)においてシューベルト歌曲集『冬の旅』を歌ったことから始まった(録音が現存している)。 同年秋、フィッシャー=ディースカウはベルリン市立歌劇場(1961年以降はベルリン・ドイツ・オペラ)の首席リリックバリトン歌手として採用され、フェレンツ・フリッチャイ指揮のもとヴェルディ『ドン・カルロ』ポーザ公爵を歌ってオペラ・デビューを飾った。他にもワーグナー『タンホイザー』ヴォルフラムなどの役で活躍した。フィッシャー=ディースカウは1978年までこのオペラ・カンパニーを本拠地とした。 翌1949年、最初のレコード録音が行われ、ブラームス『4つの厳粛な歌』を歌った。続いて彼はウィーンとミュンヘンの歌劇場にも客演する。以降はイギリス、オランダ、スイス、フランス、イタリアなどに演奏旅行を行った。転機は1951年にはザルツブルク音楽祭にフルトヴェングラーとの共演でマーラーの『さすらう若者の歌』を歌ってデビューを果たしたことである。同年、フィッシャー=ディースカウはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催されたブリテン・フェスティバル (en:Festival of Britain) でイギリスデビューも果たした。ブラームスの歌曲集でエディンバラ音楽祭にもデビューした。トーマス・ビーチャムが指揮したフレデリック・ディーリアス『人生のミサ』にも出演した。1954年にはバイロイト音楽祭に『タンホイザー』ヴォルフラムでデビューし、1961年まで毎年出演した。ザルツブルク音楽祭でも1956年から1970年代にかけての常連出演者であった。 オペラ歌手として、彼は主にベルリンとミュンヘンのバイエルン国立歌劇場で活動し、ウィーン国立歌劇場、ロンドンのコヴェント・ガーデン(ロイヤル・オペラ・ハウス)、ハンブルク州立歌劇場や日本での公演、それにエディンバラの音楽祭で王立劇場への客演を行った。 彼はキャリアの早い段階から、エリーザベト・シュヴァルツコップとイルムガルト・ゼーフリート、そしてレコーディング・プロデューサーのウォルター・レッグと協力し、シューベルトとフーゴ・ヴォルフによる歌曲のアルバムを作り上げている。 1951年、ロンドンのEMIアビー・ロード・スタジオにおいて、はじめてジェラルド・ムーアの伴奏ピアノでの歌曲のレコードを録音した。その際の曲目はシューベルトの歌曲集『美しき水車小屋の娘』の全曲を含んでいた。二人は1952年1月31日、ロンドンのキングスウェイ・ホールにおいて、フィルハーモニア・コンサート・ソサエティのマイソール・コンサートで『美しき水車小屋の娘』を演奏した。ジェラルド・ムーアはフィッシャー=ディースカウの最も重要なピアノ伴奏者であり、1967年のムーアの公演引退までしばしば演奏会や録音を行い、それらは高い評価が与えられた。特にフランツ・シューベルトの歌曲については、男声にふさわしい歌曲をすべて録音するという大規模なプロジェクトを完成し、さらに主な重唱曲も合わせて収録している。他にロベルト・シューマン、フランツ・リスト、ヨハネス・ブラームス、フーゴ・ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウスなど、主要なリート作曲家の歌曲を数多く録音しており、いずれもドイツ・リートの名録音と言われる。 また、ピアニストとしてのヴォルフガング・サヴァリッシュと多くのコンサートを行い、いくつかのレコードを録音している。他にも伴奏を務めたピアニストは、クラウス・ビリング、ヘルマン・ロイター、ヘルタ・クルスト、イェルク・デームス、レナード・バーンスタイン、マウリツィオ・ポリーニ、スヴャトスラフ・リヒテル、ダニエル・バレンボイム、アルフレート・ブレンデル、マレイ・ペライア、ハルトムート・ヘル、小林道夫など多数にのぼり、フィッシャー=ディースカウ本人の弁によると「180人くらい」だという。『冬の旅』のスタジオ録音だけでも8回行ったのをはじめ、膨大な数のリサイタルと録音を行っており、20世紀最大のドイツリート歌手の一人としての地位を確立しているのみならず、歌曲の価値の高さそのものを認知させ向上させることに貢献している。 フィッシャー=ディースカウは「特にリートを歌う場合には、発音が大切になってきます」と述べている。彼は20世紀前半において声楽発音の常識であった舞台ドイツ語 (de:Bühnendeutsch) に、口語発音を取り入れ現代化させていった。 ドイツの歌手には珍しく地方歌劇場での下積み期間がほとんどないこともあり、同年輩のヘルマン・プライやエーベルハルト・ウェヒターと違ってオペレッタはあまり歌わないが、それでもヨハン・シュトラウス2世『こうもり』『ジプシー男爵』の録音を残している。 フィッシャー=ディースカウの初めての米国への演奏旅行は1955年、29歳の時に行われ、4月15日にJ.S.バッハのカンタータ『私は十字架を喜んで担おう Ich will den Kreuzstab gerne tragen』BWV56と4月16日の『ドイツ・レクイエム』でシンシナティにおいてコンサートデビューを果たした。4月19日、ミネソタ州セントポールでフランツ・シューベルトの歌曲を歌ってアメリカでの歌曲リサイタルのデビュー。ニューヨークでのデビューは5月2日、タウンホールで行われ、シューベルトの歌曲集『冬の旅』を休憩なしで歌った。アメリカでのリサイタルはいずれもジェラルド・ムーアの伴奏で行われた。ニューヨークのカーネギー・ホールで初めての歌曲リサイタルを1964年に開いた。 彼のレパートリーは、クロード・ドビュッシーやモーリス・ラヴェルなどのフランス歌曲や、チャールズ・アイヴズのアメリカ歌曲にも広がっており、約100人の作曲家による約3,000曲に及んでいた。アルノルト・シェーンベルクやアルバン・ベルク、アントン・ウェーベルンをはじめ、現代音楽の作品も数多く歌っている。1962年5月30日、コベントリーの新聖堂で行われたベンジャミン・ブリテン『戦争レクイエム』の初演に参加(ブリテンがソリストとしてフィッシャー=ディースカウを選んだ)し、イギリスのテノール、ピーター・ピアーズと並んで歌った。フィッシャー=ディースカウは、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ、カール・アマデウス・ハルトマン(彼のために『歌の情景 Gesangsszene』を書いた)、アリベルト・ライマン、サミュエル・バーバー、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ、エルンスト・クルシェネク、ヴィトルト・ルトスワフスキ、ジークフリート・マットゥス(ドイツ語版)、ヴィンフリート・ツィリヒ、ゴットフリート・フォン・アイネム、オトマール・シェックにも精通していた。国連の委嘱により1973年に書かれたゴットフリード・フォン・アイネムのカンタータ『後に生まれる人のために An die Nachgeborenen』の1975年初演と1993年の録音にも参加し、ユリア・ハマリとカルロ・マリア・ジュリーニ指揮ウィーン交響楽団と共演した。 他にも、フィッシャー=ディースカウの主要なレパートリーには宗教曲、特にJ.S.バッハがあげられる。彼の歌唱はこの分野でも際立った存在であり、EMIに残したカール・フォルスターの指揮での録音や、アルヒーフに残したカール・リヒターの指揮でのさまざまなアリアは、古楽器が流行した現在でも色あせることがない。 彼はイタリアオペラも録音している。ヴェルディ『リゴレット』タイトル・ロール(レナータ・スコット、カルロ・ベルゴンツィと共演)や『ドン・カルロ』ロドリゴの録音は、おそらくこれらの録音の中で最も評価されているものであろう。他にも、前者ほどの影響力はないとしても、『マクベス』タイトル・ロール(エレナ・スリオティスと共演)『椿姫』ジョルジョ・ジェルモン、プッチーニ『トスカ』スカルピア(ビルギット・ニルソンと共演)などもある。指揮者のフェレンツ・フリッチャイは言った「ベルリンでイタリアのバリトンに出会えるとは夢にも思わなかった」。
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