ウォルター・レッグ
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ウォルター・レッグ(Walter Legge, 1906年6月1日 - 1979年3月22日)は、イギリスはロンドン生まれのレコーディング・プロデューサー。
- ^ ただし、1960年まではカラヤンをDGに譲ったバーターとして、カラヤンのEMIにおけるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との録音も1960年まで行われ(こちらは英コロムビアが担当)、その間はフィルハーモニア管弦楽団との録音も継続したほか、ルドルフ・ケンペやオットー・クレンペラーの指揮によるベルリン・フィルハーモニーとの録音も行われた。
- ^ その後ベルリン・フィルハーモニーのEMIへの録音は、団員の希望で実現したジョン・バルビローリの指揮によるものや、カラヤンの指揮によりスヴャトスラフ・リヒテル、ダヴィッド・オイストラフ、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチをソリストに起用して行われた『三重協奏曲』など、単発でDGからのレンタルで行われるのみだったが、1970年からカラヤンの指揮を中心に本格的に再開されている(こちらは¥ドイツ・エレクトローラが担当)。
- 1 ウォルター・レッグとは
- 2 ウォルター・レッグの概要
- 3 参考文献
ウォルター・レッグ
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「エリーザベト・シュヴァルツコップ」の記事における「ウォルター・レッグ」の解説
1946年3月、ヘルベルト・フォン・カラヤンは「音源探し」でウィーンにいた当時の英国EMI(„His Master’s Voice“, HMV)のプロデューサーでフィルハーモニア管弦楽団の創設者でもあるウォルター・レッグを若きシュヴァルツコップに紹介した。レッグはロッシーニ『セビリアの理髪師』ロジーナを歌うシュヴァルツコップを聴き、即座にレコード録音の契約を申し出た。しかし、当時から完全主義者だった彼女がきちんとオーディションをするよう自ら望むと、レッグは厳しいオーディションを行った。ヘルベルト・フォン・カラヤンがグランドピアノを弾き、オーディションに共同で加わった。ヴォルフの「誰がお前を呼んだのか」(Wer rief dich denn?:『イタリア歌曲集』中の1曲)を繰り返し様々な表情で歌わせるというもので、これを1時間以上も続けたという。カラヤンはあまりの執拗さに、レッグに対し「あなたは余りにもサディスティックだ」と言い置いて立ち去った。しかし、シュヴァルツコップはレッグの要求以上の才能を見せ、2人はその夜EMIへの専属録音契約を交わした。それ以来レッグは彼女のマネージャーと音楽上のパートナーを務め、仕事上の協力関係は個人的な関係にも発展し、1953年10月19日にイギリスのサリー州のエプソムで2人は結婚した。レッグとの共同作業によって、彼女は、クールで「銀」の滑らかさ、超越的な美しい声質、微妙なニュアンス、そして同時代の偉大な歌手たちとは常に少し距離を置いた演奏という、紛れもない独自の歌唱スタイルを形成していった。彼女のレパートリーは常に19世紀と後期ロマン派のドイツ歌曲の伝統に忠実であった。 レッグの助言により、シュヴァルツコップはその後、舞台のレパートリーを一部の主役のみに絞っていった。『ドン・ジョヴァンニ』ドンナ・エルヴィーラ、モーツァルト『フィガロの結婚』伯爵夫人、『コジ・ファン・トゥッテ』フィオルディリージ、リヒャルト・シュトラウス『カプリッチョ』伯爵令嬢マドレーヌ、『ばらの騎士』マルシャリン。ときにはヴェルディ『ファルスタッフ』アリーチェ・フォードも歌い好評を博した。ただし、EMIレーベルでは、フランツ・レハール『メリー・ウィドウ』やヨハンシュトラウス2世『ジプシー男爵』など、いくつかの「シャンパンオペレッタ」の録音を行っている。 1958年にBBCの『デザート・アイランド・ディスク』で8つのお気に入りのレコードを選ぶように招かれたシュヴァルツコップは、自分の録音のうち7つと、8番目にカラヤンが指揮した『ばらの騎士』の前奏曲を選び、一緒に仕事をした人たちとの思い出を呼び起こした。
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