歌手としての成功と米国への留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:24 UTC 版)
「李秀満」の記事における「歌手としての成功と米国への留学」の解説
翌1976年、韓国歌謡界は大麻草波動によって荒廃の一途を辿っていたが、その中で李は「幸福」(ヘンボク)や「一輪の夢」(ハンソンイ クム)などのフォークソングでヒットを飛ばして一躍人気歌手となり、同年「MBC10大歌手歌謡祭」の新人歌手賞を受賞すると、翌1977年には同賞の10大歌手に選出される栄誉を得た。また歌手業だけでなく、人気バンドを次々と輩出して韓国歌謡界に新たな潮流をもたらした「MBC大学歌謡祭」の進行役を1977年の第1回から4年連続で担当して高い評価を得るなど、司会者としても活躍した。 1980年には、「イ・スマン・グァ・365イル」(イ・スマンと365日)というバンドを結成して、当時韓国では創始期であったハードロックに挑戦するなど、新境地を開拓する意欲も見せていたが、その直後に全斗煥政権が実施した言論統廃合に失望して、芸能活動をたたみ自国を離れることを決断。翌1981年、かつて思い描いていたエンジニアへの夢を胸に米国へと旅立ち、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校の大学院に入学した。
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