司会者として
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ラジオパーソナリティでの話術ぶりを評価され、『キャッチ』(日本テレビ、1989年 - 1992年)、『ジョーダンじゃない!?』(フジテレビ、1992年 - 1993年)、『どうーなってるの?!』(フジテレビ、1993年 - 1999年)などのワイドショーに次々に総合司会で起用され、着実に足場を固めて行く。 そして1999年4月から2021年3月まで『情報プレゼンター とくダネ!』(フジテレビ)の総合司会を務め、その地位を確実なものにした。大学生の頃、就職活動真っ只中の1970年、小倉の第一志望はフジテレビジョンであり、入社したら朝のワイドショーを担当したいと入社面接時に話していたが不合格に終わったため、『28年来の願いが叶った』と、番組スタートの記者会見の場で語った。 『とくダネ!』の裏番組だった『はなまるマーケット』(TBS)には出演できなかったため、2000年に『はなまるマーケット』の姉妹番組として深夜に放映された『ウラまるカフェ』(TBS)にゲスト出演して薬丸裕英との共演を果たしている。同じく、『とくダネ!』の裏番組『あさイチ』(NHK総合テレビ)を強く意識していると述べている。『あさイチ』の初代メインキャスターを務めた有働由美子(元NHKアナウンサー)とは、コンサートで顔を合わせることもあるが、あまり口を利かないという。小倉は有働をライバル視していた。小倉が2017年5月30日放送のNHK総合テレビ『ごごナマ』で有働のことをライバルと公言した後、有働は小倉に「ライバルなんて言っていただいて光栄です」と手紙を送った。小倉はこの手紙を宝物として飾っている。また、2010年春にNHKが行った総合テレビにおける『連続テレビ小説』の放送時間を8時15分から8時に繰り上げた改編に不満を持っている。 マラソンに対する造詣は深く、フジテレビ系列のマラソン中継(北海道、大阪・名古屋の両女子と東京、並びに国際千葉駅伝)のゲスト兼応援団長をダブルで出演している。
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司会者として
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2006年には『オーラの泉』『R30』での司会が評価され、放送批評懇談会のギャラクシー賞5月期月間賞を受賞している。
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司会者として
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初のメイン司会番組は1969年(昭和44年)の『ワゴンでデート』(ニッポン放送)で、和田アキ子とのトーク番組だった。その後も『ラジオカウント』、『セイ!ヤング』、『ハローパーティー』など数多くのラジオ番組の司会者を務める。 1972年(昭和47年)10月にキャシー中島とテレビ番組『ぎんざNOW!』(TBS)の司会となり好視聴率を得る。 続いて1973年(昭和48年)10月に放送開始した『うわさのチャンネル』(日本テレビ)の司会を務め、人気が急上昇した。また湯原昌幸と『せんみつ・湯原のドット30!』(TBS)で共演。絶妙なコンビで人気を博し、後に明星食品のラーメンのCMに共演する事になる。 この頃に結婚。披露宴の司会は、みのもんたが務めた。 『うわさのチャンネル』のエンディングで「NHKに出たい」と書いたボードを持ちながらふざけて踊っていたことがあったが、そこから1977年にNHKのテレビドラマ『北上山系』の出演につながったというエピソードがある。 この頃は極めて多忙であり、無理なスケジュールで体調を崩した(次項参照)。
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