安倍晴明物語一代記 ニ
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「安倍晴明物語」の記事における「安倍晴明物語一代記 ニ」の解説
吉備公野馬台之詩(きびこうやばたいのし)をよむ并読法(よむほう)の事 (前巻の「吉備公文選をよむ事」の続き) 吉備公は宮中から呼び出しで参内する。そして鬼の告げたとおり、野馬台之詩を読むよう命じられる。野馬台之詩はふつうの文字で書かれているのだが、何をどう読んでも意味があるようには読めない。吉備公は内心口惜しく思うのだが、長谷の観音に祈ることしかできない。天子も臣下たちも固唾を飲んで吉備公を見つめていたところ、天井から小さな蜘蛛が降りてきて「東」の文字の上に止まった。そして糸を引きつつ上下左右と動き回り、「為」の文字のところで止まるとかき消すよう姿が失せた。吉備公は糸の跡をたどってみると、意味がよくわかるように読め、「東海姫氏国」から「遂為空」まで一字一句誤りなく読み上げることができた。その場に居合わせたすべての人々はざわめき、感嘆の声がしばらく止まなかった。 天子も感に堪えず、直に詔を発して吉備公を褒め称えた。そして「命を許す。この国に留まって学問を究めよ」とおっしゃられた。吉備公は3年間唐に留まり儒学役歴天文地理のすべてを究め、帰朝の際には、七庿(しちびょう)の祭具、暦書『簠簋』、易書『内伝』、『考野馬台之詩』、囲碁、火鼠の裘(かそのかわごろも)、金磬(きんけい)の7種の宝物を賜った。さらに天子は、日本の天皇宛の返書と大般若経、『史漢文選』、仏舎利等を持たせ、禁中に1000人の僧を集めて帰路の安全を祈願させた。 無事日本に帰り着いた吉備公は禁中に参内するが、そこでも天皇から惜しみない賛辞を与えられ、乞われて唐であったさまざまなことを語った。そして天皇から「『野馬台之詩』はわが日本の未来を記した書である。この予言書を読み伝えよ」と勅命を下され、吉備公はこれに従った。 (以下、『野馬台之詩』の原文と訳文が続く。「野馬台詩」参照) 吉備公仲麿が末を尋ぬる事 (承前。これ以降「吉備入唐間事」を離れ、『簠簋抄』独自の展開をなぞる) 帰朝した吉備公は、官位も上がり、天皇の覚えめでたく、世評もこの上なく高い。才学優長の名臣として国政の執行にあたった。 そうして歳をとるにつれて吉備公は考えるようになった。「唐で死すべき身が助かり、帰朝して大臣にまで登り詰めたのも、安倍仲麿のおかげだ。この恩に報いるには、唐から持ち帰った『簠簋内伝』を仲麿の子孫に譲り、その者を天文地理陰陽暦道の博士して、家の再興をはかることだろう」と。仲麿の子孫の行方を方々尋ね回ったが、妻子はすでになく、家は滅びていた。吉備公は「自分の力ではここまでだ。100年後にもこれを伝えよ」と遺言して亡くなった。 そんな折、和泉国篠田の里の近くの安倍野という地に仲麿ゆかりの者がいると聞いた吉備公の遺族は、『簠簋内伝』をこの者に渡した。しかし、仲麿の子孫は零落し農民となっていたため、『簠簋内伝』は長く死蔵され、これを学ぶ者はいなかった。 晴明出生(しゅっしょう)の事 (承前) 村上天皇の御代、安倍の家に安名(やすな)という者が農業で生計を立てていた。その安名のもとにある日若い美人がやってきて「夫婦になりたい」と申し出る。安名は喜んでこの申し出を受け、程なく二人の間には男の子ができた。この子はむやみと泣くこともなく、ふつうとは違った容貌をしていたので、安名は大いに喜んだ。 女は昼夜を分かたず農作業を助け、休むことなく努めたので、他家の田が水害・干ばつ・風害・虫害に遭っても安名の田だけは豊作だった。それゆえ、安名の家は栄えた。子供は一人のみだったので大切にされ、先祖の氏から「安倍の童子」と名付けられた。 童子が3歳になった夏、母は障子に一首の歌を書き付け行方不明となった。恋しくば たづね来て見よ 和泉なる 篠田の森の しのびしのびに。 安名はひどく悲しんで、探し歩いたが、女の行方を知る者はいなかった。 その夏は苗を隠すほどに雑草が生い茂ったのだが、安名の田では誰ともしれぬ20人ほどの声がして、夜通し田の手入れをしているようだった。このため、安名が手を借りなくても田は守られた。「これは篠田の狐がわが妻となり、姿を消した後も我が子かわいさにこのようなことしているのだ」と安名は考えた。さらに「昼に篠田の森に隠れるのはともかく、せめて夜には通ってきてくれないものだろうか」と思い、せめて夜は かよいてみえよ 子をいかに ひるはしのだの もりにすむとも と詠んだが、女が現れることはなかった。女への情を募らせる安名は、日が暮れると童子を膝に乗せて、その髪をなでつつ、子を不憫に思って涙を流した。童子も父の顔を見上げて泣きはしたものの、いといけな心にも何か思うところがあるようで、以後並の子供のように戯れ遊ぶことがなかった。かくして童子は7歳で書を読み、一を聞いて十を知り、一度聞いたことは二度と忘れることはなかった。人は皆童子に奇特の思いをなし、安名はおおいに喜んだ。 安倍の童子小虵をたすけ并竜宮に行て秘符を得たる事 (『簠簋抄』が原典。『浦島太郎』に代表される「竜宮伝説」の主人公を晴明に置き換えたもの) 安倍の童子が住吉大社に詣でた際、子供たちが集まって小さなへび(虵)を捕まえて殺そうとしているのに出会う。童子はへびを不憫に思い、これを買い取り、「人の多いところへ出るな」と諭し、草むらに放してやった。童子が安倍野へ帰ろうとすると、突然美しい女性が現れ、自分は竜宮の乙姫であり、先ほど殺されそうになったところを助けてもらった恩返しに竜宮へ招待すると言う。童子はこの誘いを受けた。 わずか1町(約1km)ほど歩くと大門に到着し、そこを入ると宮殿楼閣がそびえ立ち、庭には金銀の砂が敷かれ、垣には玳瑁(たいまい)が飾ってある。さらに奥へ進むと宮殿楼閣の四方に、それぞれ四季(春・夏・秋・冬)の景色が広がっている。宮殿楼閣は七宝で装飾され、荘厳で美しいことこの上ない。乙姫に誘われ、豪華な内装をしつらえた宮殿に上がると、高貴な装いの男女が待っていた。この貴人たちは童子を招き寄せ、「我が娘の命を助けてくれた御恩に報じます」と言うやいなや、美しい女性が2、30人、手に仙郷の珍味を捧げもってこれを並べ、宴席が設けられた。宴が終わると、竜王は金の箱を取り出し、「これは竜王の秘符である。天地日月人間世界のすべての事がわかるようになる。名を揚げ、人々を助けよ」と告げて童子に渡した。さらに七宝の箱から一青丸を取り出し、童子の目と耳に入れた。 乙姫に伴われ童子が竜宮を辞去すると、1町も行かないうちに安倍野に出た。家に帰りついて、人の顔かたちを見ると、その人の過去・未来が心に浮かんでくる。さらに鳥や獣の鳴き声を聞くと、その意味が手に取るようにわかる。最初は訝しんだが、その原因が竜宮の薬にあることに思い当たった。 童子は家に籠もって、父の安名が吉備公から譲られた『簠簋内伝』を取り出し3年の間学んだ。さらに竜宮の秘符の修得に励み、ついには悟りを開き、世の中のあらゆる事象で知らぬことはなくなった。 安倍の童子鳥語を聞ける付晴明という名をたまわりし事 (承前) 村上天皇の天徳4年(西暦960年)、後涼殿より出た火により内裏全部が消失したが、翌年再建された。 あるとき、安倍の童子は天王寺(四天王寺)を詣でて、その軒先で休んでいた。その堂宇の上に都のカラスと富士浅間大菩薩の使いで熊野に参る途中のカラスが止まり、世間話を始める。その話によると… 天皇の病気が薬の処方でも、加持祈祷でも直らないのは、これが祟りによるものだからだ。祟りをなしているのは、去年の内裏造営の折、柱の礎に生け贄として捧げられた蛙とへび(虵)で、両者が相争っている怒りが天に昇って天皇の病気の原因になっているという。これを取り除けば病気は平癒するということだった。 話を聞いていた安倍の童子は家に帰って占ってみたが、カラスの言うとおりであり、やがて都に上り、「自分は和泉国に住まう安倍仲麿の末裔、安倍の童子治明(はるあきら)という者である。天文地理易暦を独学で会得し、天下無双の占いを行う。このたびは天皇の病気の原因を占いたい」と奏上した。 治明は公卿の詮議を受けることとなり、唐櫃の中身当て(入っているのはみかん48個)で試される。治明は占いを行った後、「中身は生き物で、形は丸い。48個の卵です」と答えた。居並んだ諸卿は内心「間違って答え、恥ずかしいやつ」と思ったが、雑役係がふたを開くと、なんと卵が入っている。なんでみかんが卵に変わったのか調べると、係の者が命令を受けて入れる物を変えたことが判明した。これほどの占いを行ったことは奇特なこととして、急ぎ天皇の病気についても占わせることとなった。治明には病気の原因はカラスの話やその後の占いでわかっていたので、柱の礎の下の蛙とへびを掘り出して捨てれば病気は治ると告げた。その通りにしたところ、病気は平癒し、天皇も公卿たちも感嘆すること、この上なかった。 この功により、即座に位階も5位となって昇殿を許されるようになり、陰陽頭に抜擢される。さらに、この日が二十四節気の清明節に当たったことから、「晴明」という名を賜ることとなった。続いて除目が行われ、易暦博士および縫殿頭(ぬいのかみ)に任じられ、天下にその名を広めた。さらに西洞院に屋敷を与えられ、常時に禁中に伺候することとなり、安倍野周辺に300町の領地が与えられた。 道満(どうまん)が事 (『簠簋抄』が原典) 播磨国印南郡に道満法師という人がいた。彼は藍屋村主清太(あしやのすぐりきよふと)の子孫で、清太が法道仙人から学んだ天文地理易暦の教えを記した書典を密かに読んで、おおむねこれを理解したので、「自分は法道仙人の弟子である」と詐称した。彼が出家した折には、法道の「道」の字をとって「道満」と名乗ることもした。彼は仏法に背いた高慢で非法乱行の徒だったが、占いの技に優れ、ときに霊験を顕したりもするため、世間の人は彼を畏れ尊んだ。自分でも、陰陽五行天文地理易暦では、天下に並ぶ者がいないと慢心していた。 そんなところに、都で天皇の病気の原因を占いで解き明かし、官位を授かって朝廷に仕える安倍晴明という人物がいることを耳にした。道満は晴明の成功を妬み、「晴明と競い、これを打ち落とせば、天下の名人と言われるに違いない」と考え、上京し晴明の家に着く。 道満と晴明智恵くらべの事 (承前) (時間は少し戻る)都に入った道満が市井の人に晴明のことを尋ねると、20日前には自分の到来を予期していたという。これを聞いた道満は胸騒ぎを覚えた。道満は術で家来を仕立て上げ、晴明の館を訪ね、自分と晴明の陰陽の才を比べたいと申し出る。晴明は快諾し、詳細を道満に委ねたところ、道満は同じ事なら禁中の紫宸殿で行いたいという。晴明も同意し、急ぎ奏上したところ勅許が下りた。 いよいよ対決のときがきた。最初に道満が小石を投げ上げると燕に変じる。皆が感嘆しているところで、晴明が扇を一あおぎすると燕は小石に戻って落ちた。次は晴明が祈念すると龍が雲より下り雨を降らせる。道満はいろいろ行うが、雨は降り止まない。水量が増えて舟を浮かべられる程になったとき、晴明がなにやら唱えると雨が上がり、びしょ濡れだったはずの観客の服も乾いている。観客は驚き、賞賛の声を上げた。そこで道満が「こんなことは人を誑かすだけの魔法非道であり、正理とはいえない。占いの技で勝負を決しよう」と呼びかける。さらに「負けた方が勝った方の弟子となることにしよう」と申し添えた。 奥で長櫃に夏みかんを15個入れ、上に重しを乗せて観客の眼前に出された。道満は占った末、「中には夏みかんが15個ある」と答えた。中身を知っていた天皇や公卿たちが道満が正解したと思ったそのとき、晴明が長櫃に近づき加持し直し「中身はねずみ15匹である」と言う。天皇公卿は晴明が間違ったと思い、色を失ったが、衛府の役人がふたを開くと、15匹のねずみが駆け出してきて、四方に逃げ去った。長櫃の中に夏みかんなど影も形もなかった。観客一同はざわめき、晴明の才に感じ入った。道満は晴明に及ばなかったことを恥じ、晴明の弟子となり、西洞院の館に住むこととなった。 晴明入唐付伯道の弟子となる事 (承前) 道満との勝負に勝った晴明に対し、天皇は稀代の才能と賞賛し、四位主計頭を賜り、中国への留学を申しつけた。留守宅と妻の梨花は道満が預かることとなり、晴明は旅立ち、中国の明州(寧波)の港に到着した。中国に到着した晴明は参内した。 時は北宋の太祖趙匡胤の開宝年間(西暦968~976年)。ある日、皇帝が「陰陽暦数の妙を極めた者は誰か」と尋ねると、ある人が答えて曰く、雍州城荊山の伯道上人であると。皇帝はそれを聞いて、晴明を伯道上人に逢わせるよう命じ、晴明を城荊山へ派遣した。 晴明を見た伯道上人は涙を流して、晴明が安倍仲丸の生まれ変わりであることを告げ、「陰陽暦数天文地理加持秘符を学ぼうと思うなら、全身全霊をもって我に仕えよ。さればことごとく伝えよう」と言う。晴明はこれに応えて身命を賭して仕えることを誓う。上人は晴明に、3年間、毎日3度萱を刈って積むよう申し付けた。 3年が過ぎたころ、上人自らが求めた赤栴檀で、晴明と等身大の文殊菩薩像を作り、それを納める堂宇を建て、その屋根は晴明が刈り集めた萱で葺いた。上人は21日間の物忌みの後、『簠簋内伝』を口頭で晴明に伝え、「至急日本に帰朝せよ」と命じる。さらに「一つ、7人の子をもうけても妻に気を許すな。二つ、大酒を飲むな。三つ、一方的で配慮に欠けた議論をするな」と戒め、この3点を守って身を慎めば将来は安泰であり、破ればその身に災難が降りかかると語った。 皇帝は勅命で晴明に帰朝を命じ、さまざまな宝物を与えた。時は円融天皇の天禄3年(西暦972年)8月、晴明は無事日本に帰国し、参内すると、天皇は晴明を褒め称えた。晴明はこの後も術の研鑽に励み、奇特を顕したので、世人は彼を持て囃した。
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