安倍晴明物語一代記 ニとは? わかりやすく解説

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安倍晴明物語一代記 ニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 22:44 UTC 版)

安倍晴明物語」の記事における「安倍晴明物語一代記 ニ」の解説

吉備野馬台之詩(きびこうやばたいのし)をよむ并読法(よむほう)の事 (前巻の「吉備公文選をよむ事」の続き吉備公は宮中から呼び出し参内する。そして鬼の告げたとおり、野馬台之詩を読むよう命じられる野馬台之詩はふつうの文字書かれているのだが、何をどう読んでも意味があるようには読めない吉備公は内心口惜しく思うのだが、長谷の観音に祈ることしかできない天子臣下たちも固唾飲んで吉備公を見つめていたところ、天井から小さな蜘蛛降りてきて「東」の文字の上止まった。そして糸を引きつつ上下左右動き回り、「為」の文字のところで止まるかき消すよう姿が失せた吉備公は糸の跡をたどってみると、意味がよくわかるように読め、「東海姫氏国」から「遂為空」まで一字一句誤りなく読み上げることができた。その場居合わせたすべての人々ざわめき感嘆の声がしばらく止まなかった。 天子感に堪えず直に詔を発して吉備公を褒め称えた。そして「命を許す。この国に留まって学問究めよ」とおっしゃられた。吉備公は3年間唐に留まり儒学役歴天文地理のすべてを究め帰朝の際には、七庿(しちびょう)の祭具暦書簠簋』、易書内伝』、『考野馬台之詩』、囲碁火鼠の裘(かそのかわごろも)、金磬(きんけい)の7種の宝物賜った。さらに天子は、日本の天皇宛の返書大般若経、『史漢文選』、仏舎利等を持たせ禁中1000人の僧を集めて帰路の安全を祈願させた。 無事日本に帰り着いた吉備公は禁中参内するが、そこでも天皇から惜しみない賛辞与えられ、乞われて唐であったさまざまなことを語った。そして天皇から「『野馬台之詩』はわが日本未来を記した書である。この予言書読み伝えよ」と勅命下され吉備公はこれに従った。 (以下、『野馬台之詩』の原文訳文が続く。「野馬台詩参照吉備公仲麿が末を尋ぬる事承前。これ以降吉備入唐間事」を離れ、『簠簋抄』独自の展開をなぞる) 帰朝した吉備公は、官位上がり天皇覚えめでたく世評この上なく高い。才学優長名臣として国政執行あたった。 そうして歳をとるにつれて吉備公は考えようになった。「唐で死すべき身が助かり帰朝し大臣にまで登り詰めたのも、安倍仲麿のおかげだ。この恩に報いるには、唐から持ち帰った簠簋内伝』を仲麿の子孫に譲り、その者を天文地理陰陽暦道の博士して、家の再興をはかることだろう」と。仲麿の子孫の行方方々尋ね回ったが、妻子はすでになく、家は滅びていた。吉備公は「自分の力ではここまでだ。100年後にもこれを伝えよ」と遺言し亡くなった。 そんな折、和泉国篠田の里の近く安倍野という地に仲麿ゆかりの者がいると聞いた吉備公の遺族は、『簠簋内伝』をこの者に渡した。しかし、仲麿の子孫は零落し農民となっていたため、『簠簋内伝』は長く死蔵され、これを学ぶ者はいなかった。 晴明出生しゅっしょう)の事 (承前村上天皇御代安倍の家に安名(やすな)という者が農業生計立てていた。その安名のもとにある日若い美人がやってきて「夫婦なりたい」と申し出る安名喜んでこの申し出を受け、程なく二人の間には男の子ができた。この子はむやみと泣くともなく、ふつうとは違った容貌をしていたので、安名大い喜んだ。 女は昼夜を分かたず農作業助け、休むことなく努めたので、他家の田が水害干ばつ風害虫害遭って安名の田だけは豊作だった。それゆえ安名の家は栄えた子供一人のみだったので大切にされ、先祖の氏から「安倍童子」と名付けられた。 童子3歳になった夏、母は障子一首の歌を書き付け行方不明となった恋しくば たづね来て見よ 和泉なる 篠田しのびしのびに。 安名はひどく悲しんで探し歩いたが、女の行方を知る者はいなかった。 その夏はを隠すほどに雑草生い茂ったのだが、安名の田では誰ともしれぬ20人ほどの声がして、夜通しの手入れをしているようだった。このため安名手を借りなくても田は守られた。「これは篠田がわが妻となり、姿を消した後も我が子かわいさこのようなことしているのだ」と安名考えた。さらに「昼に篠田隠れるのはともかく、せめて夜に通ってきてくれないものだろうか」と思い、せめて夜は かよいてみえよ 子をいかに ひるはしのだの もりにすむとも と詠んだが、女が現れることはなかった。女への情を募らせる安名は、日が暮れる童子を膝に乗せて、その髪をなでつつ、子を不憫に思って涙を流した童子も父の顔を見上げて泣きはしたものの、いといけな心にも何か思うところあるようで、以後の子供のように戯れ遊ぶことがなかった。かくして童子7歳で書を読み、一を聞いて十を知り一度聞いたことは二度と忘れことはなかった。人は皆童子奇特思いをなし、安名はおおいに喜んだ安倍の童子小虵をたすけ并竜宮に行て秘符を得たる事 (『簠簋抄』が原典。『浦島太郎』に代表される竜宮伝説」の主人公晴明置き換えたもの) 安倍童子住吉大社詣でた際、子供たち集まって小さなへび(虵)を捕まえて殺そうとしているのに出会う童子はへびを不憫に思い、これを買い取り、「人の多いところへ出るな」と諭し草むら放してやった。童子安倍野へ帰ろうとすると、突然美しい女性が現れ自分竜宮の乙姫であり、先ほど殺されそうになったところを助けてもらった恩返し竜宮招待すると言う童子はこの誘い受けた。 わずか1町(約1km)ほど歩くと大門到着し、そこを入ると宮殿楼閣がそびえ立ち、庭には金銀の砂が敷かれ、垣には玳瑁たいまい)が飾ってある。さらに奥へ進むと宮殿楼閣四方に、それぞれ四季春・夏・秋・冬)の景色広がっている。宮殿楼閣七宝装飾され荘厳美しいことこの上ない乙姫誘われ豪華な内装しつらえた宮殿上がると、高貴な装い男女待っていた。この貴人たちは童子招き寄せ、「我が娘の命を助けてくれた御恩報じます」と言うやいなや美しい女性が2、30人、手に仙郷珍味捧げもってこれを並べ宴席設けられた。宴が終わると、竜王は金の箱を取り出し、「これは竜王秘符である。天地日月人間世界すべての事がわかるようになる。名を揚げ人々助けよ」と告げて童子渡した。さらに七宝の箱から一青丸を取り出し童子目と耳入れた乙姫伴われ童子竜宮辞去すると、1町も行かないうちに安倍野に出た。家に帰りついて、人の顔かたちを見ると、その人過去・未来が心に浮かんでくる。さらに鳴き声聞くと、その意味手に取るようにわかる。最初は訝しんだが、その原因竜宮にあることに思い当たった童子は家に籠もって、父の安名吉備公から譲られた『簠簋内伝』を取り出し3年の間学んだ。さらに竜宮秘符修得励みついには悟り開き世の中あらゆる事象知らぬことはなくなった。 安倍の童子鳥語を聞ける付晴明という名をたまわりし事承前村上天皇天徳4年西暦960年)、後涼殿より出た火により内裏全部消失したが、翌年再建された。 あるとき、安倍童子天王寺四天王寺)を詣でて、その軒先休んでいた。その堂宇の上に都のカラス富士浅間大菩薩使い熊野に参る途中カラス止まり世間話始める。その話によると… 天皇病気処方でも、加持祈祷でも直らないのは、これが祟りよるものだからだ。祟りをなしているのは、去年内裏造営の折、の礎に生け贄として捧げられとへび(虵)で、両者が相争っている怒りが天に昇って天皇病気の原因になっているという。これを取り除けば病気平癒するということだった。 話を聞いていた安倍童子は家に帰って占ってみたが、カラス言うとおりであり、やがて都に上り、「自分和泉国住まう安倍仲麿末裔安倍童子治明はるあきら)という者である。天文地理易暦を独学会得し天下無双占いを行う。このたび天皇病気の原因占いたい」と奏上した。 治明公卿詮議を受けることとなり、唐櫃中身当て入っているのはみかん48個)で試される治明占い行った後、「中身生き物で、形は丸い。48個の卵です」と答えた居並んだ諸卿は内心間違って答え恥ずかしいやつ」と思ったが、雑役係がふたを開くと、なんと卵が入っている。なんでみかんが卵に変わったのか調べると、係の者が命令受けて入れる物を変えたことが判明したこれほど占い行ったことは奇特なこととして、急ぎ天皇病気についても占わせることとなった治明には病気の原因カラスの話やその後占いわかっていたので、の礎の下のとへびを掘り出して捨てれば病気治る告げたその通りにしたところ、病気平癒し、天皇公卿たちも感嘆すること、この上なかった。 この功により、即座に位階も5位となって昇殿許されるようになり、陰陽頭抜擢される。さらに、この日が二十四節気清明節当たったことから、「晴明」という名を賜ることとなった続いて除目が行われ、易暦博士および縫殿頭(ぬいのかみ)に任じられ天下にその名を広めた。さらに西洞院に屋敷与えられ常時禁中伺候することとなり、安倍周辺300町の領地与えられた。 道満どうまん)が事 (『簠簋抄』が原典播磨国印南郡道満法師という人がいた。彼は村主清太(あしやのすぐりきよふと)の子孫で、清太が法道仙人から学んだ天文地理易暦の教え記した書典を密かに読んでおおむねこれを理解したので、「自分法道仙人弟子である」と詐称した。彼が出家した折には、法道「道」の字をとって「道満」と名乗ることもした。彼は仏法背いた高慢非法乱行徒だったが、占いの技に優れ、ときに霊験顕したりもするため、世間の人は彼を畏れ尊んだ自分でも、陰陽五行天文地理易暦では、天下に並ぶ者がいないと慢心していた。 そんなところに、都で天皇病気の原因占い解き明かし官位授かって朝廷仕え安倍晴明という人物がいることを耳にした。道満晴明成功妬み、「晴明競い、これを打ち落とせば天下名人と言われる違いない」と考え上京し晴明の家に着く。 道満と晴明智恵くらべの事承前) (時間は少し戻る)都に入った道満市井の人晴明のことを尋ねると、20日前に自分到来予期していたという。これを聞いた道満胸騒ぎ覚えた道満は術で家来仕立て上げ晴明の館を訪ね自分と晴明陰陽の才を比べたいと申し出る晴明快諾し詳細道満委ねたところ、道満は同じ事なら禁中紫宸殿行いたいという。晴明同意し急ぎ奏上したところ勅許下りた。 いよいよ対決のときがきた。最初に道満小石投げ上げると燕に変じる。皆が感嘆しているところで、晴明が扇を一あおぎすると燕は小石戻って落ちた。次は晴明祈念すると龍がより下り降らせる道満はいろいろ行うが、降り止まない水量増えて舟を浮かべられ程になったとき、晴明なにやら唱える上がりびしょ濡れだったはずの観客の服も乾いている。観客驚き賞賛の声を上げた。そこで道満が「こんなことは人を誑かすだけの魔法非道であり、正理とはいえない。占いの技で勝負決しよう」と呼びかける。さらに「負けた方が勝った方の弟子となることにしよう」と申し添えた。 奥で長櫃夏みかん15入れ、上に重し乗せて観客眼前出された。道満占った末、「中には夏みかん15個ある」と答えた中身知っていた天皇公卿たちが道満正解したと思ったそのとき晴明長櫃近づき加持し直し中身はねずみ15匹である」と言う天皇公卿晴明間違った思い色を失ったが、衛府役人がふたを開くと、15のねずみ駆け出してきて、四方逃げ去った長櫃中に夏みかんなど影も形もなかった。観客一同ざわめき晴明の才に感じ入った道満晴明に及ばなかったことを恥じ晴明弟子となり、西洞院の館に住むこととなった晴明入唐付伯道の弟子となる事承前道満との勝負勝った晴明対し天皇稀代才能賞賛し、四位主計頭賜り中国への留学申しつけた。留守宅と妻の梨花道満が預かることとなり、晴明旅立ち中国明州寧波)の港に到着した中国到着した晴明参内した。 時は北宋太祖趙匡胤開宝年間西暦968~976年)。ある日皇帝が「陰陽暦数の妙を極めた者は誰か」と尋ねると、ある人が答えて曰く雍州山の伯道上人であると。皇帝はそれを聞いて晴明を伯道上人に逢わせるよう命じ晴明を城山へ派遣した晴明見た道上人は涙を流して晴明安倍仲丸生まれ変わりであることを告げ、「陰陽暦天文地理加持秘符学ぼうと思うなら、全身全霊をもって我に仕えよ。さればことごとく伝えようと言う晴明はこれに応えて身命を賭して仕えることを誓う。上人晴明に、3年間、毎日3度刈って積むよう申し付けた。 3年過ぎたころ、上人自らが求めた赤栴檀で、晴明等身大文殊菩薩像を作り、それを納める堂宇を建て、その屋根晴明刈り集めた葺いた上人21日間の物忌みの後、『簠簋内伝』を口頭晴明伝え、「至急日本帰朝せよ」と命じる。さらに「一つ、7人の子もうけても妻に気を許すな。二つ大酒を飲むな。三つ一方的配慮欠けた議論をするな」と戒め、この3点守って身を慎め将来安泰であり、破ればその身に災難降りかかる語った皇帝勅命晴明帰朝命じさまざまな宝物与えた。時は円融天皇天禄3年西暦972年8月晴明は無事日本に帰国し参内すると、天皇晴明褒め称えた晴明この後も術の研鑽励み奇特顕したので、世人は彼を持て囃した。

※この「安倍晴明物語一代記 ニ」の解説は、「安倍晴明物語」の解説の一部です。
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