吉備公仲麿が末を尋ぬる事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 22:44 UTC 版)
「安倍晴明物語」の記事における「吉備公仲麿が末を尋ぬる事」の解説
(承前。これ以降「吉備入唐間事」を離れ、『簠簋抄』独自の展開をなぞる) 帰朝した吉備公は、官位も上がり、天皇の覚えめでたく、世評もこの上なく高い。才学優長の名臣として国政の執行にあたった。 そうして歳をとるにつれて吉備公は考えるようになった。「唐で死すべき身が助かり、帰朝して大臣にまで登り詰めたのも、安倍仲麿のおかげだ。この恩に報いるには、唐から持ち帰った『簠簋内伝』を仲麿の子孫に譲り、その者を天文地理陰陽暦道の博士して、家の再興をはかることだろう」と。仲麿の子孫の行方を方々尋ね回ったが、妻子はすでになく、家は滅びていた。吉備公は「自分の力ではここまでだ。100年後にもこれを伝えよ」と遺言して亡くなった。 そんな折、和泉国篠田の里の近くの安倍野という地に仲麿ゆかりの者がいると聞いた吉備公の遺族は、『簠簋内伝』をこの者に渡した。しかし、仲麿の子孫は零落し農民となっていたため、『簠簋内伝』は長く死蔵され、これを学ぶ者はいなかった。
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