吉備尾代の蝦夷征伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:12 UTC 版)
同年、吉備本国では、以下のような事態が発生していた。 吉備臣尾代は、征新羅将軍に任命されて、出征の途中で故郷に立ち寄った。そこへ、雄略天皇崩御の報が伝わり、尾代の配下の五百の蝦夷たちは付近の郡を侵寇した。家から戻ってきた尾代は娑婆水門(さばのみなと、備後国沼隈郡佐波村、現在の広島県福山市(元松永市)の海岸の一部)で蝦夷らと会戦したが、「あるものは踊り、あるものは伏し」て矢を避け、射倒すことができなかった。尾代は弦を鳴らして邪霊を追いはらい、何とか二隊を射殺すことはできたが、矢は尽き果ててしまった。そこで、和歌を詠んで気分を一新し、刀で多くの蝦夷を斬り殺した。そして、追撃して、丹波の浦掛水門(現在の京都府京丹後市(元熊野郡)久美浜町浦明(うらけ))に追い詰め、ことごとく殺した、という。
※この「吉備尾代の蝦夷征伐」の解説は、「星川皇子の乱」の解説の一部です。
「吉備尾代の蝦夷征伐」を含む「星川皇子の乱」の記事については、「星川皇子の乱」の概要を参照ください。
- 吉備尾代の蝦夷征伐のページへのリンク