晴明入唐付伯道の弟子となる事とは? わかりやすく解説

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晴明入唐付伯道の弟子となる事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 22:44 UTC 版)

安倍晴明物語」の記事における「晴明入唐付伯道の弟子となる事」の解説

承前道満との勝負勝った晴明対し天皇稀代才能賞賛し、四位主計頭賜り中国への留学申しつけた。留守宅と妻の梨花道満が預かることとなり、晴明旅立ち中国明州寧波)の港に到着した中国到着した晴明参内した。 時は北宋太祖趙匡胤開宝年間西暦968~976年)。ある日皇帝が「陰陽暦数の妙を極めた者は誰か」と尋ねると、ある人が答えて曰く雍州山の伯道上人であると。皇帝はそれを聞いて晴明を伯道上人に逢わせるよう命じ晴明を城山へ派遣した晴明見た道上人は涙を流して晴明安倍仲丸生まれ変わりであることを告げ、「陰陽暦天文地理加持秘符学ぼうと思うなら、全身全霊をもって我に仕えよ。さればことごとく伝えようと言う晴明はこれに応えて身命を賭して仕えることを誓う。上人晴明に、3年間、毎日3度刈って積むよう申し付けた。 3年過ぎたころ、上人自らが求めた赤栴檀で、晴明等身大文殊菩薩像を作り、それを納める堂宇を建て、その屋根晴明刈り集めた葺いた上人21日間の物忌みの後、『簠簋内伝』を口頭晴明伝え、「至急日本帰朝せよ」と命じる。さらに「一つ、7人の子もうけても妻に気を許すな。二つ大酒を飲むな。三つ一方的配慮欠けた議論をするな」と戒め、この3点守って身を慎め将来安泰であり、破ればその身に災難降りかかる語った皇帝勅命晴明帰朝命じさまざまな宝物与えた。時は円融天皇天禄3年西暦972年8月晴明は無事日本に帰国し参内すると、天皇晴明褒め称えた晴明この後も術の研鑽励み奇特顕したので、世人は彼を持て囃した。

※この「晴明入唐付伯道の弟子となる事」の解説は、「安倍晴明物語」の解説の一部です。
「晴明入唐付伯道の弟子となる事」を含む「安倍晴明物語」の記事については、「安倍晴明物語」の概要を参照ください。

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