晴明入唐付伯道の弟子となる事
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「安倍晴明物語」の記事における「晴明入唐付伯道の弟子となる事」の解説
(承前) 道満との勝負に勝った晴明に対し、天皇は稀代の才能と賞賛し、四位主計頭を賜り、中国への留学を申しつけた。留守宅と妻の梨花は道満が預かることとなり、晴明は旅立ち、中国の明州(寧波)の港に到着した。中国に到着した晴明は参内した。 時は北宋の太祖趙匡胤の開宝年間(西暦968~976年)。ある日、皇帝が「陰陽暦数の妙を極めた者は誰か」と尋ねると、ある人が答えて曰く、雍州城荊山の伯道上人であると。皇帝はそれを聞いて、晴明を伯道上人に逢わせるよう命じ、晴明を城荊山へ派遣した。 晴明を見た伯道上人は涙を流して、晴明が安倍仲丸の生まれ変わりであることを告げ、「陰陽暦数天文地理加持秘符を学ぼうと思うなら、全身全霊をもって我に仕えよ。さればことごとく伝えよう」と言う。晴明はこれに応えて身命を賭して仕えることを誓う。上人は晴明に、3年間、毎日3度萱を刈って積むよう申し付けた。 3年が過ぎたころ、上人自らが求めた赤栴檀で、晴明と等身大の文殊菩薩像を作り、それを納める堂宇を建て、その屋根は晴明が刈り集めた萱で葺いた。上人は21日間の物忌みの後、『簠簋内伝』を口頭で晴明に伝え、「至急日本に帰朝せよ」と命じる。さらに「一つ、7人の子をもうけても妻に気を許すな。二つ、大酒を飲むな。三つ、一方的で配慮に欠けた議論をするな」と戒め、この3点を守って身を慎めば将来は安泰であり、破ればその身に災難が降りかかると語った。 皇帝は勅命で晴明に帰朝を命じ、さまざまな宝物を与えた。時は円融天皇の天禄3年(西暦972年)8月、晴明は無事日本に帰国し、参内すると、天皇は晴明を褒め称えた。晴明はこの後も術の研鑽に励み、奇特を顕したので、世人は彼を持て囃した。
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