晴明丘南小学校の分離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/13 01:08 UTC 版)
「大阪市立晴明丘小学校」の記事における「晴明丘南小学校の分離」の解説
児童数はピークの1959年以降はやや減少したものの、1980年代まで常時1500-2000人規模の児童数で推移してきた。そのため教室不足など学校の過密化が問題化していた。 1978年に晴明丘小学校の用地として、帝塚山に土地を取得した。帝塚山の校地は1980年より運動場として使用された。その後分校設置委員会が具体化し、1986年に帝塚山校地に分校が完成した。 分校は校区南部在住の1-3年生児童を収容する学年分校として開校し、翌1987年には学年進行で4年生まで収容した。1988年には分校が独立し、大阪市立晴明丘南小学校として5年生までの児童で開校した。
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