晴政後嗣とその後の確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 12:35 UTC 版)
天文15年(1546年)3月1日、南部家の第22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子として岩手郡一方井城で生まれる。 永禄8年(1565年)、従兄である南部氏第24代当主・南部晴政に男子がなかったため、その長女の婿となり養嗣子として三戸城に迎えられた。 永禄9年(1566年)と永禄11年(1568年)、鹿角郡に侵入した安東愛季軍を撃退する。 元亀元年(1570年)、晴政に実子・南部晴継が誕生すると次第に晴政から疎まれるようになる。[要出典] 元亀2年(1571年)5月(天正9年(1581年)説もある)、南部一族の大浦為信に石川城を攻められて実父・石川高信が自害する(生き延びたとする説もある)。これは石川家を弱体化させておきたい晴政が、石川家の津軽地方をかすめ取るよう大浦為信を密に唆したとの説もある。なお南部氏側資料では、石川高信は天正9年(1581年)に病死し大浦為信に攻められていないが、南部氏側の作意を示す証拠が存在する。[要出典] 天正4年(1576年)、正室(晴政の長女)が早世すると、本人も身の危険を感じていたのか晴政の養嗣子の座を辞退し田子館に引き籠もるが、刺客の脅威から逃れるため北信愛の剣吉館や根城南部氏当主・八戸政栄の根城などに身を隠す。晴政は信直への不信を抱き続け、南部家内は晴政ならび一族内の有力勢力・九戸氏の連衡と、信直を盟主とする南長義、北信愛の連合の間で対立していく。[要出典]
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