晴広の治世とは? わかりやすく解説

晴広の治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 09:25 UTC 版)

相良晴広」の記事における「晴広の治世」の解説

当主となった晴広は、実父頼興の後ろ楯得て戦乱の中で相良氏安定導いていった。島津氏三州統一進めていたが、まだ肥後進出できるような余裕無く薩州島津家とこそ長島帰属問題争いがあったものの、島津宗家となった伊作島津家島津忠良、貴久との関係は、義陽の頃の永禄7年1564年)に悪化するまでむしろ良好で 、少なくとも晴広の晩年まで比較平穏だった。 天文18年1549年8月老臣らの勧めにより、嫡子満丸義陽)を世子定めた。これは同い年の庶弟・徳千代(頼貞)との家督争いが起こるのを未然避ける意味があった。 これより前、菊池義武大友重治)は兄の大友義鑑隈府城追われ肥前高来落ち延び、晴広は彼を庇護してしばしば八代饗応していたが、天文19年1550年2月に義鑑が二階崩れの変死去して大友義鎮大友氏家督を継ぐと、3月14日隈本城主の鹿子木鎮国(かのこぎ あきくに)が菊池氏旧臣田島重実(たじま しげさね)と謀って菊池家再興旗印挙げた義武この機に乗じ招きに応じて隈本城入り、晴広はこれを支援した。晴広は、3月23日名和阿蘇相良三家同盟にあった阿蘇氏重臣甲斐親直と、相良綾部助などの老臣会談させた。大友義鎮義武挙兵驚き、同じ3月23日相良氏協力求めたが、晴広は拒否しただけでなく、義武名和氏との同盟仲介行った同年6月名和行興の家臣皆吉武真(伊予守)が叛乱して宇土城襲撃した。行興は防戦したが、城を棄てて逃亡した23日、晴広は自ら出陣し高津賀に陣をしいた。武真はこれを恐れて豊福城に撤退した。これにより名和行興は宇土城奪還できたので、行興は晴広に感謝してさらに豊福城に進撃するように進言した。しかし25日皆吉武真は兵百余をつれて八代来て晴広に投降したので、戦うことなく豊福城は再び相良氏のもとに収まった一方大友義鎮家臣小原鑑元佐伯惟教大軍与えて菊池義武攻めさせた。7月11日義武合志原でこれを迎え撃った敗れた7月20日、晴広は薩摩東郷相模守に相良綾部助を使い出して大友氏との和議仲介依頼した。しかし8月には隈本城義武包囲され戦利なしとして100騎余をつれて城を脱出し国人衆守られ金峰山に籠った。ところが金峰山大友勢に攻め寄せられて、義武一族と共に天草河内浦城逃れ、さらに島原渡った天文21年1552年)、頼興が、一族岡本地頭相良相模守頼春(長国の子岡本頼春とも言う)を謀殺し、末弟稲留長蔵地頭職据えた天文23年1554年2月義武島津氏頼ろうとしたが薩摩出水入国拒否されたために、3月、晴広を頼って水俣から人吉へと赴いて来て永国寺剃髪した。晴広は義武丁重に保護した同年4月1日人吉城小火があり、満丸家臣宅に難を逃れた相良氏大友氏和議成立したものの、伊作家島津忠良和睦斡旋依頼するなどしても、義鎮と義武調停上手く行かず、義鎮は義武身柄引き渡し要請4月豊後から外交僧や田吹上総介が来たが、晴広は応じなかった。5月12日にも再び大友使いが来たが、同様に拒否した11月、義鎮は河尻を義武与えると伝え重ねて要請したので、義武覚悟決めてこれを了承し次男直と娘・辰若、妻を相良氏預け、高鑑をつれて11月15日八代発ったが、豊後帰る途上20日木原殺害された。 また同じ天文23年7月長島領主である長島鎮真が堂崎城放棄し薩州島津家頼って出水逃れた。晴広は同城に兵を進めてこれを占領した弘治元年1555年2月7日、晴広は式目二十一条布告した。これは「相良氏法度」として有名なのである。しかしこの「相良氏法度」は相良晴広1人制定したものではなく相良氏歴代当主によって制定されたものに晴広が加筆したのである第1条から第7条までは相良為続制定し第8条から第20条までは相良長毎によって、21条から41条までを相良晴広制定したものであった。同条により、一向宗領内厳しく禁止された。 同年8月12日先代築いた八代鷹峯城鷹ヶ峰城、古麓城)で晴広は死去した享年43八代林泉院に葬られ法名林泉院兆山慶。

※この「晴広の治世」の解説は、「相良晴広」の解説の一部です。
「晴広の治世」を含む「相良晴広」の記事については、「相良晴広」の概要を参照ください。

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