晴広の治世
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当主となった晴広は、実父頼興の後ろ楯を得て、戦乱の中でも相良氏を安定に導いていった。島津氏は三州の統一を進めていたが、まだ肥後に進出できるような余裕は無く、薩州島津家とこそ長島の帰属問題で争いがあったものの、島津宗家となった伊作島津家の島津忠良、貴久との関係は、義陽の頃の永禄7年(1564年)に悪化するまでむしろ良好で 、少なくとも晴広の晩年までは比較的平穏だった。 天文18年(1549年)8月、老臣らの勧めにより、嫡子の万満丸(義陽)を世子と定めた。これは同い年の庶弟・徳千代(頼貞)との家督争いが起こるのを未然に避ける意味があった。 これより前、菊池義武(大友重治)は兄の大友義鑑に隈府城を追われて肥前の高来に落ち延び、晴広は彼を庇護してしばしば八代で饗応していたが、天文19年(1550年)2月に義鑑が二階崩れの変で死去して大友義鎮が大友氏の家督を継ぐと、3月14日、隈本城主の鹿子木鎮国(かのこぎ あきくに)が菊池氏旧臣田島重実(たじま しげさね)と謀って菊池家再興の旗印を挙げた。義武はこの機に乗じ、招きに応じてて隈本城に入り、晴広はこれを支援した。晴広は、3月23日、名和・阿蘇・相良の三家同盟にあった阿蘇氏の重臣甲斐親直と、相良綾部助などの老臣を会談させた。大友義鎮は義武の挙兵を驚き、同じ3月23日、相良氏に協力を求めたが、晴広は拒否しただけでなく、義武と名和氏との同盟の仲介を行った。 同年6月、名和行興の家臣皆吉武真(伊予守)が叛乱して宇土城を襲撃した。行興は防戦したが、城を棄てて逃亡した。23日、晴広は自ら出陣して高津賀に陣をしいた。武真はこれを恐れて豊福城に撤退した。これにより名和行興は宇土城を奪還できたので、行興は晴広に感謝してさらに豊福城に進撃するように進言した。しかし25日、皆吉武真は兵百余をつれて八代に来て晴広に投降したので、戦うことなく豊福城は再び相良氏のもとに収まった。 一方、大友義鎮は家臣小原鑑元と佐伯惟教に大軍を与えて菊池義武を攻めさせた。7月11日、義武は合志原でこれを迎え撃った敗れた。7月20日、晴広は薩摩の東郷相模守に相良綾部助を使いに出して、大友氏との和議の仲介を依頼した。しかし8月には隈本城で義武は包囲され、戦利なしとして100騎余をつれて城を脱出し、国人衆に守られた金峰山に籠った。ところが金峰山も大友勢に攻め寄せられて、義武は一族と共に天草の河内浦城に逃れ、さらに島原に渡った。 天文21年(1552年)、頼興が、一族で岡本の地頭相良相模守頼春(長国の子、岡本頼春とも言う)を謀殺し、末弟稲留長蔵を地頭職に据えた。 天文23年(1554年)2月、義武は島津氏を頼ろうとしたが薩摩出水で入国を拒否されたために、3月、晴広を頼って水俣から人吉へと赴いて来て、永国寺で剃髪した。晴広は義武を丁重に保護した。 同年4月1日、人吉城で小火があり、万満丸は家臣宅に難を逃れた。 相良氏と大友氏の和議は成立したものの、伊作家の島津忠良に和睦斡旋を依頼するなどしても、義鎮と義武の調停は上手く行かず、義鎮は義武の身柄引き渡しを要請。4月、豊後から外交僧や田吹上総介が来たが、晴広は応じなかった。5月12日にも再び大友の使いが来たが、同様に拒否した。11月、義鎮は河尻を義武に与えると伝え、重ねて要請したので、義武は覚悟決めてこれを了承し、次男則直と娘・辰若、妻を相良氏に預け、高鑑をつれて11月15日に八代を発ったが、豊後に帰る途上の20日、木原で殺害された。 また同じ天文23年の7月、長島の領主である長島鎮真が堂崎城を放棄し、薩州島津家を頼って出水に逃れた。晴広は同城に兵を進めてこれを占領した。 弘治元年(1555年)2月7日、晴広は式目二十一条を布告した。これは「相良氏法度」として有名なものである。しかしこの「相良氏法度」は相良晴広1人が制定したものではなく、相良氏歴代の当主によって制定されたものに晴広が加筆したものである。第1条から第7条までは相良為続が制定し、第8条から第20条までは相良長毎によって、21条から41条までを相良晴広が制定したものであった。同条により、一向宗は領内で厳しく禁止された。 同年8月12日、先代の築いた八代の鷹峯城(鷹ヶ峰城、古麓城)で晴広は死去した。享年43。八代林泉院に葬られ、法名は林泉院兆山蓮慶。
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