菊池氏
(菊池家 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/22 04:02 UTC 版)
菊池氏(きくち し)は、武家・華族だった日本の氏族。平安時代より九州肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠とした豪族で南北朝時代には歴代当主が南朝方武将として活躍したが、南北朝合同後に衰退し、戦国時代に大友氏に滅ぼされた[3]。支流が米良氏として残り、江戸時代には交代寄合、明治維新後は菊池に復姓して華族の男爵家に列した[4]。
注釈
- ^ 筑前の少弐氏に仕えた。
- ^ 「菊池系図」(『続群書類従』巻第151所収)、「菊池系図」(『菊池風土記』所収)、『筑後菊池諸系図』、『菊池伝記』などが藤原隆家の裔としている。一方で、隆家の兄弟である隆宗(『尊卑分脈』などの各種系図には掲載がなく実在の人物でないと考えられる)の裔とする系図(『上妻系図』)や、兄伊周の裔とする系図(『草野系図』(山本村観興寺蔵))とする系図もあり、南北朝時代末期、菊池武朝が朝廷に上申した『菊池武朝申状』で単に「道隆四代後胤、太祖大夫将監則隆」としているように、当初は道隆の後裔とは称したが、具体的に道隆のどの息子の後裔にあたるのかは明確でなかったと考えられる[7]。
- ^ 政則は隆家の指揮下で奮戦した蔵規(まさのり)と同人物とされ、藤原実資の牧司や太宰大監・対馬守などを歴任し、藤原定任殺害の嫌疑を受けて追捕をされたことも記述されている。
- ^ (太田 1963)では菊池は古くは久々知と読まれていたことを根拠に久々智姓(『新撰姓氏録』摂津皇別では阿部氏と同祖とする)との関係も示唆している。
- ^ 前述、武朝申状による。
- ^ 武房の姿は蒙古襲来絵詞に描かれている。
- ^ 新田義貞らとともに箱根・竹ノ下の戦いでは菊池千本槍を駆使して戦った。
- ^ 本来、常陸国の菊池氏ではないが、生国が定かでないことと、同じ佐竹家臣であることから本項では常陸の菊池氏に収録した。
- ^ 子孫に菊地平左衛門正清がいる。
- ^ 子孫に菊地茂兵衛武慶がいる。
- ^ 秀経子孫は菊池権蔵秀清という。
- ^ 子孫に菊池戸左衛門、菊池勘次がいる。
- ^ 子孫に菊池木工允久本がいる。
出典
- ^ a b 世界大百科事典 第2版 きくちうじ【菊池氏】
- ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ) 菊池氏
- ^ 旺文社日本史事典 三訂版『菊池氏』 - コトバンク
- ^ a b 松田敬之 2015, p. 239.
- ^ a b 竹内誠 2003, p. 54.
- ^ 百科事典マイペディア 菊池氏
- ^ 太田 1963, p. [要ページ番号].
- ^ 太田 1963.
- ^ 『応永戦覧』
- ^ 木村 2014, p. [要ページ番号].
- ^ 木村 2014.
- ^ 日本の苗字7000傑
- ^ 太田 1934, p. 1855.
- ^ a b c d e f g h i j k 秋田県公文書館 2001, p. 126.
- ^ a b 秋田県公文書館 2001, p. 125.
- ^ 菊池伝兵衛武清所有『藤原姓菊池系図』、菊池清庵貴忠所有『菊池清庵系譜』参照。
- ^ 菊地茂左衛門尹信 所有『藤原姓菊地氏系図』参照。
- ^ 瀬谷 2006, p. 33.
- ^ 明田 1986, p. 417.
- ^ 明田 1986, p. 404.
- ^ 瀬谷 2006, p. 307.
- ^ 瀬谷 2006, p. 308.
- ^ 明田 1986, p. 432.
- ^ 明田 1986, p. 229.
- ^ 瀬谷 2006, p. 310.
- ^ 明田 1986, p. 416.
- ^ a b 明田 1986, p. 360.
- ^ 明田 1986, p. 426.
- ^ 明田 1986, p. 415.
- ^ 明田 1986, p. 232.
- ^ 明田 1986, p. 420.
- ^ 瀬谷 2006, p. 311.
- ^ 明田 1986, p. 371.
- ^ 明田 1986, p. 370.
- ^ 明田 1986, p. 223.
- ^ a b c 明田 1986, p. 224.
- ^ 明田 1986, p. 363.
- ^ 明田 1986, p. 350.
- ^ 明田 1986, p. 216.
- ^ 明田 1986, p. 362.
- ^ a b 明田 1986, p. 258.
- ^ 太田 1934, pp. 1855–1856.
菊池家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 16:12 UTC 版)
菊池家の次男秋坪が箕作阮甫の婿養子となり箕作秋坪となる。しかし菊池家に嗣子が無かったため、逆に秋坪の次男大麓が菊池家の養嗣子となった。すなわち菊池大麓の母は箕作阮甫の娘である。 菊池大麓は日本での近代西洋数学史上の最初期の数学者で、科学行政家としても活躍した。大麓の四男は物理学者・菊池正士である。 大麓の娘婿として、天皇機関説で有名な美濃部達吉(憲法学者)と鳩山和夫の次男・秀夫(鳩山一郎の弟で民法学者)、労働法の権威・末弘厳太郎がいる。経済学者で東京都知事を務めた美濃部亮吉は達吉の長男。
※この「菊池家」の解説は、「箕作家」の解説の一部です。
「菊池家」を含む「箕作家」の記事については、「箕作家」の概要を参照ください。
菊池家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 06:43 UTC 版)
菊池求馬(きくちきゅうま) 薬研堀裏手の屋敷に住む、家禄200石の旗本の若き当主。旗本とは言え無役のため、酔楽から丸薬作りを教わって家計の足しにしており、千鶴とも酔楽を通じて知り合った。その後も頻繁に治療院に顔を出し、様々な事件に首を突っ込んだり巻き込まれたりする千鶴を助けて、事件を解決している。 千鶴とは互いのことを憎からず思っている間柄だが、未だはっきりと思いを告げ合ってはいない。 剣の腕前は、片桐道場主鉄齋が後継に望んだほど。 第9巻で、無役から抜け出し、大番組の第五組加藤筑前守配下と決まった。といっても、禄は上がらないため、上司などへの付け届けや、登城時に供をさせる中間小者を臨時雇いするなど、かえって物入りとなった。そのため、丸薬作りの内職はやめられない。 菊池左馬之助(きくちさまのすけ) 求馬の亡父。大目付加納但馬守は、彼のことを「廉潔で仁慈の人」と評した。家禄350石の御小普請組頭であり、将来はさらなる栄達も期待されていたが、配下の者に襲われて負傷し、その責を問われて役を解かれ、禄も200石に減らされた。すぐに隠居し、求馬に家督を譲った後、間もなく病死した。 菊池松野(きくちまつの) 求馬の母。左平には「ご隠居さま」と呼ばれている。千鶴が求馬の嫁になってくれることを望んでいる。 左平(さへい) 求馬に仕える中年の下男。求馬と千鶴の交流を喜んでいる。
※この「菊池家」の解説は、「藍染袴お匙帖」の解説の一部です。
「菊池家」を含む「藍染袴お匙帖」の記事については、「藍染袴お匙帖」の概要を参照ください。
- 菊池家のページへのリンク