菊池寛との出会い
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1919年(大正8年)、『新潮』が「菊池寛氏に対する公開状」を募集し、佐藤一英が応募すると入選し、それが機縁となって佐藤は菊池寛を訪ねるようになった。菊池は小説を書くようにすすめたが、佐藤はあくまで詩を作るとのべ、親友に小説志望がいるといい、1920年、横光を菊池寛に紹介し、以降、生涯師事することとなった。友人小島勗の家へ出入りしているうちに、当時13歳であった妹のキミを意識し始める。 1920年(大正9年)1月、雑誌『サンエス』に小説「宝」を発表。9月、戸塚から小石川区初音町の初音館に移った。ここで横光が生田長江訳フローベール「サランボー」を手元において小説を書き、またデクエンシイやクヌート・ハムスンを読んでいたと吉田一穂、中山義秀が述べている。この頃は雑誌『サンエス』で親友の佐藤一英とともに外国文学紹介(無署名記事)のアルバイトをしていた。またこの頃、佐藤に「俺は余り志賀(直哉)氏にかぶれすぎていた」と書簡で書いている。小島キミへの恋心を自覚し、小島勗が徴兵されて不在の小島家へ頻繁に通った。 1921年(大正10年)1月、時事新報に「踊見」を応募し、選外一位となった。政治経済学科へ転入するも長期欠席と学費未納のため除籍となる。6月、藤森淳三、富ノ澤麟太郎、古賀龍視らと同人誌『街』を創刊。11月8日、小石川中富坂の菊池寛の家で川端康成と出会い、菊池は二人を本郷の牛肉屋「江知勝」に連れて行き牛鍋をふるまった。しかしストイックな横光はほとんど箸を持たなかった。後年、このことが事実かどうか中山義秀が問いただした際、横光は「あれは偉い人の前だったから、俺は我慢して喰べなかったのだ」と苦笑して答えた。横光が先に帰ると菊池が川端に「あれはえらい男だから友達になれ」といった。以降、横光は藤森淳三と仲違いの際に川端に仲介を頼むなどし、争いを好まず友人の多い川端の女房的フォローは、傲然として敵の多い横光の大きな援けとなった。「御身」を書くがこの時には発表せずにいる。この頃、ペンネームを「横光左馬(さま)」にすれば、「これならいつでも人から敬称されている」と昂然としていた。一時キリスト教徒になり教会にも出入りした。この頃「蠅」と「日輪」を書いていたが、暮らしは貧しく、一日の食事は十銭のラーメン一杯だけであった。一度だけ、中山義秀に少しの借金をした。また小島キミとの恋愛を、一年の徴兵から戻って大学に復学した兄の小島勗に反対される。理由は小島勗が復学後に左翼化して横光と思想的に対立したこと、小島の不在中に横光が頻繁に小島家を訪ねたことを不快に思ったこと、「愛する人を家事の奴隷にするのは罪悪」として経済力のない横光を受け入れなかったことであった。 1922年(大正11年)2月に「南北」が『人間』に掲載された。5月、富ノ澤麟太郎、古賀、小島勗、中山義秀らと同人雑誌『塔』を創刊し、「面」(のち「笑はれた子」)を掲載。8月29日に父が仕事先の朝鮮京城で客死(享年55)し、ひとり渡鮮した。「青い石を拾つてから」では京城は黄色く、駅で母と会い父の家にいくとすでに葬式はすんでおり、骨箱をみて横光は「何アんぢや、こんなものか」と笑ったが、夕方になると悲しみに浸った。父を亡くしたことで経済的にますます困窮し、そのため小島キミとの恋愛も絶望的であった。虚無感にひたり、朝鮮について「ここの民族は、ひよつとすると歴史の頂上で疲れているのであろう。これはたしかにあの空が悪いのだ。笑ひを奪つたあの空が。冷酷で、どこかあまりに人間を馬鹿にし過ぎた空である。どこに風が吹いているかと云うかのような、ああ云う空の下ではとても民族は発展することが出来るものではない。何の親しみもない空だ。澄明で虚無的で応援力が少しもなく、それかと云つて、もしあの空に曇られたならとても仰ぐのも恐ろしくなるに相違ない」(「旅行記」)と書き、やがて「私はもう何事にもだんだん悲しまなくなつて来た。さうして私は私自身に冷たくなればなるほど私は次第に強みを感じて来た」と心境を表現した。
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