宇土為光とは? わかりやすく解説

宇土為光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/19 16:54 UTC 版)

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宇土為光
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 文亀3年(1503年
主君 菊池重朝能運
氏族 肥後菊池氏宇土氏
父母 父:菊池持朝、養父:宇土忠豊
兄弟 菊池為邦、菊池為安、詫摩為房、為光
木野相直
重光

宇土 為光(うと ためみつ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将菊池氏の家臣。肥後国宇土城主。

生涯

肥後菊池氏19代当主・菊池持朝の子として生まれ、後に宇土忠豊の養子となる。しかし菊池氏宗家の家督の簒奪を狙い、まず文明16年(1484年)に、同じ肥後の国人相良為続と結び甥の菊池重朝と戦うも敗北、宇土城から逃亡している。しかし翌文明17年(1485年)に阿蘇氏の内紛に介入し、馬門原の戦いで勝利を収め、宇土城を奪回している。そして明応8年(1499年)に八代の豊福城に拠って再度挙兵するが、菊池能運有馬氏の軍勢により敗北する。

文亀元年(1501年)、またもや謀叛を起こして隈府城を攻略。そして玉祥寺原の戦いで能運勢と雌雄を決し、菊池氏の重臣である菊池重安や東重棟、溝口資清を敗死させ、肥後守護職を簒奪。ここに為光の野望は叶ったのである。

ところがその栄光も長くは続かず、守護職奪回と為光打倒の執念を燃やす菊池能運は、文亀3年(1503年)に有馬氏の援兵や相良氏の協力を得て肥後へ戻り、その報に接した宇土為光は、高瀬にて迎撃するも敗北して筑後国へと逃亡した。しかし立花山城守が為光らを拘束。隈府へ送還された為光及び、子・重光、孫・宮満丸は斬首され、菊地系宇土氏は滅びた。





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