名和系宇土氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/19 16:55 UTC 版)
菊池系宇土氏の滅亡後、宇土城には菊池氏家臣の城為冬が城代として入城する。しかし1504年(文亀4/永正元年)、肥後守護菊池能運の急死に伴う混乱に際し為冬は宇土城を棄て本国へ帰還した。こうして空き城となった宇土城へ入城するのが、宇土為光の娘婿であった名和顕忠である(名和系宇土氏初代)。以後対外的には「宇土殿」と称されるが、宇土氏を自称するのは天文22年5月21日付後奈良院口宣案写から、名和系宇土氏3代の名和行興まで下るとみられる。 顕忠は先に阿蘇氏へ割譲された郡浦庄の回復を試みているが、阿蘇氏の抵抗を排除することができないままに推移し、郡浦支配が達成出来るのは1550年(天文19年)、行興の代まで待たねばならなかった。 宇土入城以前の名和氏は相良氏との抗争の過程で八代郡を失い、僅かに益城郡守富庄のみを有する状態であったため、宇土郡東部及び益城郡での活動が主となる。中でも最大の争点となったのが、益城郡豊福庄にあった豊福城をめぐる抗争であった。この城をめぐって相良氏と、約80年間に合計9回も所有権を奪い合っている。 名和系宇土氏は以後4代行憲・5代行直を経て、戦国時代末期、1587年(天正15年)の九州征伐に際して6代顕孝は豊臣秀吉に降伏し、所領を安堵されるが、同年に生じた肥後国人一揆に際して中立を保ったため、秀吉の嫌疑を恐れた名和顕孝は自ら大坂へ赴いて弁明すべく、弟の顕輝を宇土城代とした。その顕輝は、翌1588年(天正16年)4月に、肥後鎮圧に来た秀吉軍からの城明け渡し要求を拒否して篭城するが敗れ、城外へ逃れるも捕えられ殺害されて、名和系宇土氏はここに滅びる。
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