菊池系宇土氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/19 16:55 UTC 版)
紀姓宇土氏が衰退した後の鎌倉時代の末期、肥後国守護であった菊池氏の一族から、地名を取って宇土と名乗る一族が現れた。 壱岐守宇土高俊は(後入道して道光とも称する)鎌倉時代末期から南北朝時代の人物で、1348年(正平3/貞和4年)正月2日に自領の宇土津へ懐良親王一行を迎えて以来、一貫して南朝方として振る舞い、1352年(正平7/観応3年)の大宰府攻防戦における軍功が認められ、安国寺料所の高樋保(現・菊池市泗水町久米)・長講堂領六ケ庄(現・上益城郡嘉島町六嘉)を得ている。しかし一方では1361年(正平16/康安元年)、恵良惟澄から「郡浦においては道光代に城郭を構え云々」と押領を訴えられているが、郡浦領は当時阿蘇大宮司領、すなわち南朝方の領地である。この時は征西将軍宮懐良親王・肥後国守護菊池武光から押領分の返却が命ぜられているが、高俊は実力でこれを排除し、この後も郡浦庄押領を続けた。 しかし、1370年(応永3/建徳元年)九州探題に補任された今川了俊の九州計略によって、1390年(明徳元/元中7年)9月までには宇土氏は降伏している。だが了俊の降伏者処遇は所領安堵という基本方針だったため、宇土氏の郡浦庄への進出はその後も継続される。 室町時代末期、名和氏の一族ともされる宇土忠豊の養子に菊池持朝の子である為光が入り、宇土為光と名乗った。 為光は野心に溢れる人物で、1484年(文明16年)に肥後国人の相良為続と結んで甥の菊池重朝を討とうとするが、赤熊の戦いで重朝軍に敗北、宇土城を棄てて八代の名和顕忠の許へ逃亡した。この縁が元で為光と顕忠は姻戚関係を結んだとみられる。 数年後、押領した郡浦領の返還を条件に、阿蘇氏の斡旋で為光は宇土城に復帰するも、1499年(明応8年)に豊福城で再び挙兵し破れる。しかし1501年(文亀元年)になって三度叛旗を翻し、菊池武運(後に能運に改名)を玉祥寺原の戦いで破って隈府城を攻略、肥後守護職を簒奪し、宇土氏の最盛期を作り上げた。 だが1503年(文亀3年)、能運の逆襲に遭って敗北、筑後国に逃走したが現地で捕縛され、子重光・孫宮光丸とともに処刑され、菊池系宇土氏はここに滅亡する。
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